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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」三成の挙兵と茶々の陰謀、そして高笑う神の君…第41回放送「逆襲の三成」振り返り

「どうする家康」三成の挙兵と茶々の陰謀、そして高笑う神の君…第41回放送「逆襲の三成」振り返り:6ページ目

鳥居元忠との別れ

……慶長五年四月十六日上杉景勝を御征伐のため大坂城を御首途、十七日伏見城に御滞座あり、元忠をよび松平主殿助家忠、内藤彌次右衛門家長、松平五左衛門近正等を御前にめされ、我今度景勝を征伐す、渠が滅亡時日を移すべからず。しかれども石田三成このときを覘て叛心を企つべきの疑ひあり、これによりて汝等を選みて、この城を守らしむ。もし變あらば、木下若狭守勝俊が松丸の兵をもつて援平とすべしとの鈞命をかうぶる……

※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居

家康が伏見城を訪れ、鳥居元忠と別れを告げる場面です。

劇中では差し向かいでしたが、文献によって他の武将たちも同席していました。やっぱり家臣の一人々々に心を配ってこそ、我らが神の君というもの。そういう描写を、これまでもっと観たかったと思います。

同席していたのは松平家忠、内藤家長、松平近正たち。みんな昔から付き従ってきた歴戦の老勇士です。

「わしが会津へ向かえば、治部らは兵を挙げるだろう。そなたたちにこの伏見を預ける」

「「「御意」」」

それが捨て石として死ぬことを意味していると、誰もが理解していました。劇中では「逃げることはならぬ」なんて家康自ら言っていますが、元忠が逃げるなんてあり得ません。あのセリフは、いささか野暮に過ぎたのではないでしょうか。

ともあれ、来週は壮絶な最期を遂げる元忠たち。その勇姿を、しかと目に焼きつけておきたいものです。

※鳥居元忠のエピソードはこちら

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第41回放送「天下分け目」

三成の挙兵によって、いよいよ天下分け目の関ヶ原合戦が幕を開けました。

徳川秀忠(森崎ウィン)の大軍を足止めする真田昌幸(佐藤浩市)、初登場の小早川秀秋(嘉島陸)など、次週も目まぐるしい展開が予想されます。

※昌幸が天井から引っ張った白い布切れがトイレットペーパーに見えましたが、あれは何かのギミックなのでしょうか。

焼け落ちる伏見城、そして元忠の最期……少年時代からずっと家康(当時は竹千代)に忠義を尽くしてきた様子を、描写してこなかったことが惜しまれます。

後世「三河武士の鑑」と讃えられる元忠の生きざまを、心して見届けたいものです。

※参考文献:

  • 煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年
  • 白河亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年12月
  • 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年6月
  • 渡邊大門『関ヶ原合戦人名辞典』東京堂出版、2021年8月
  • 渡邊大門『関ヶ原合戦全史』草思社、2021年1月
 

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