【関ヶ原合戦】ただ一人、徳川家康に宣戦布告!真田昌幸かく語りき【どうする家康】:2ページ目
そんな中、真田昌幸だけは一人言い放ちました。
「治部殿の謀略と言うのは、推量にすぎぬ。若君の御上意とあるならば、まずはこれを信じて徳川殿の御敵と罷りなるよりございますまい」
たとえ偽りであっても豊臣家の上意というなら、真っ向からこれを否定するのは謀叛に他なりません。
だから家康に敵対せざるを得ない。確かに道理ではありますが、今この状況で家康に逆らえばただではすまないでしょう。昌幸は続けて言います。
「とは申せども、徳川殿より日ごろ賜りし御芳志を思えば、それも忍びなきもの。よって長男の伊豆守(真田信幸)を徳川殿の御味方に参らせましょう。次男の左衛門左(信繁。真田幸村)はこの老いぼれの介助に連れて参りますぞ」
かくして真田父子は敵味方に分かれ、来る関ヶ原合戦に臨むこととなったのでした。
終わりに
九一 慶長五年家康公、景勝御退治、関東御下向、野州小山にて伏見落城の到来聞し召され、下向の諸大名召し出され、「今度秀頼公の御下知と称し、石田叛逆の由に付て、これより上方へ引き返す事、各所存次第石田方へもならるべく候。すこしも遺恨に存ぜざる」由仰せられ候。その時長岡越中守忠興一番に進み出で、「石田謀計たる上は即ち御味方。」と申され候。次に福島左衛門太夫正則、「石田謀計ならば御味方、秀頼公上意ならば御敵に罷りなるべく候。上方にて實否承り届け候上、極むべし。」と申し候。余は皆、「御味方。」と申され候。爰に真田安房守昌幸、「石田謀計たるべきとは推量にて候。秀頼公上意とこれある上は、御敵に罷りなるべく候。然れども家康公日来の御芳志忍び難く候へば、嫡子伊豆守信幸を御味方に進じ申すべく候。次男左衛門佐幸村は、某老身の介副に仕るべし。」と申し切つて座を立ち、「父子兄弟、敵味方となりたる験に、信幸に一矢射よ。」と下知し、暫し戦ひて引き分れ、居城信州上田へ引き籠る。秀忠公、木曾路御通路を遮り候。昌幸義を立て家を立てたり。知謀の士と云ふべし。
※『葉隠聞書』第十巻
以上、真田昌幸が家康に宣戦布告したエピソードを紹介しました。
真っ向から敵になると言い切る昌幸も昌幸ですが、内心はともかく立ち去るのを許してやった家康もなかなかの度量ですね。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、この場面がどのように描かれるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月