「鬼」になり切れなかった大久保利通の悲哀。西南戦争に西郷隆盛はどこまで関与した?:3ページ目
鬼になり切れなかった大久保
9月24日には政府軍が鹿児島の城山を包囲し、反乱軍を追い詰めます。
この時の総司令官は山縣有朋でした。彼はかの山城屋事件で西郷に命を救われていますが、ここでは心を鬼にして総攻撃を行っています。
むしろ、ここで心を鬼にし切れなかったのは大久保利通の方でした。
彼は反乱が起きた当初から「西郷は無関係だ」と信じて疑わず、後に真実を知っても信じようとしなかったといいます。
いよいよ西郷の関与がはっきりすると、今度は自分で西郷に会いに行こうとし、臨時閣議で鹿児島出張を申請しました。しかし行けば殺されるのは確実です。周囲は必死に止めました。
大久保は、後世のイメージからクールな専制主義者という印象が強く、幼なじみの盟友・西郷を冷徹に討ち取ったように思われがちですが、実際にはこんな状態でした。
そして彼は、西郷の死を聞くと泣きじゃくっていたといいます。
このように見ていくと、日本最後の内乱である西南戦争は単なる不平士族の反乱ではなく、同郷の盟友である大久保と西郷の哀しいコミュニケーション不足が背景にあったと言えそうです。
惜しむらくは、西郷隆盛が本当はどんな人物で、何を考えて行動したのかが現代では分かりにくくなっている点ですね。
さらに惜しいことに、西郷の死後、大久保はこの幼なじみの伝記を自ら執筆する予定だったそうです。そうでなければ「西郷は後世に誤って伝えられる」と危惧していたとか。
その執筆のための準備も整っていたのですが、明治11年の5月14日、かの紀尾井坂で彼は暗殺されます。最期まで西郷からの手紙を肌身離さずしまっており、それは大久保の懐で血に染まっていたといいます。
参考資料
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』