「鬼」になり切れなかった大久保利通の悲哀。西南戦争に西郷隆盛はどこまで関与した?:2ページ目
すれ違う西郷と大久保
東京にいた大久保も、彼らをなんとか抑えようとしました。しかしうまい策はなく失敗が続いていました。
ついに私学校の幹部は、若者たちを煽って鹿児島城下に蓄えてあった火薬庫を襲撃し、銃や弾薬を強奪します。
これについて、当初、西郷隆盛はまったく知りませんでした。
だから大久保もある意味で安心していたのでしょう。伊藤博文に宛てた書簡で「私学校の連中のやっていることに大義名分はない。これで堂々と討伐できる。西郷もこの一件は不同意に違いない」と書いています。
むしろ彼は、不満分子を一網打尽にし、親友である西郷を救ういい機会だと考えていたようです。
こうして西南戦争へと突入していきます。
事態がここまで及んでも、政府高官の多くは、この反乱と西郷とは無関係であくまでも首謀者は桐野利秋だと考えていたようです。
西郷が反乱の勃発について知らされたのは、火薬庫の襲撃から三日目のことでした。その時彼は、大隅の小根占へ狩猟に出かけていたそうです。
そして、一体何がどうなったのか、西郷はよりにもよって桐野利秋にすべてを委ねてしまうのです。
桐野はその経歴からも分かる通り、戦いの中に身を置いてきた根っからの武人です。
明治6年の政変で西郷と共に鹿児島に帰る直前にも、「征韓論で敵対した参議を斬る」と息巻いて、大久保から「軍人は政治に口を出すな」と諭されたほどの気性の持ち主なのです。もう止まりません。
彼が率いる反乱軍は、鹿児島から熊本城へ向けて直進行軍を開始しました。
しかし、士族の反乱がことごとく鎮圧されていた時期です。援軍が来るはずもなく、2月には熊本城で政府軍と衝突しました。
これにより、反乱軍が当初思い描いていた、鹿児島から東京まで進軍するという計画も暗礁に乗り上げました。
その後も南九州各地で激戦となりますが、いずれも政府軍が数で圧倒します。