最後の浮世絵師”血みまれ月岡芳年”は大奥と歌舞伎界の大事件「絵島生島事件」をこう斬った!:3ページ目
生島新五郎と二代目市川團十郎
ここで言う市川團十郎とは“二代目 市川團十郎”のことです。実はこの二代目市川團十郎、生島新五郎に大変な恩を受けています。
事件当時、生島新五郎は山村座の看板役者で大変な二枚目でした。生島新五郎は濡れ・やつし(つまり恋愛話に出てくる上品な美男子で、元は高貴の出だったが今は訳あり落ちぶれた姿をしている)の名手と賞賛され、“女性たちが好きになるのも無理はない”と評されるほどの当代一の人気役者でした。
その生島新五郎の弟子が初代市川團十郎に恨みを持ち、舞台上で初代市川團十郎を刺殺したのです。そのため二代目市川團十郎は16歳で二代目を襲名することになります。
生島新五郎は、まだ役者としては未熟な二代目市川團十郎の後見人となり、10年近く演技の指導をしていたのです。そこで二代目市川團十郎は、初代市川團十郎の荒事芸だけではなく、生島新五郎の和事芸をも加味した芸風を身につけ、正徳3年(1713年)初めて『助六』を演じ、それが江戸の気風と相まって大人気を博すことになりました。
二代目市川團十郎と絵島
この二代目市川團十郎は絵島にも繋がりがあります。絵島は以前から團十郎を贔屓にしており、團十郎の身の回りのものは全て絵島が贈っていたという説があるのです。その中に「杏葉牡丹」の紋の入った小袖があったのです。
絵島生島事件のきっかけとなった酒宴の席に二代目市川團十郎は同席しませんでした。しかし市川團十郎の持ち物の中に「杏葉牡丹」の紋が入った小袖があったことで、團十郎にも嫌疑がかかります。なぜなら牡丹の紋というのは、菊紋、桐紋、葵紋に次いで高貴な人物が使う家紋だったからです。
結局、二代目市川團十郎は罪に問われることはありませんでした。その理由として2つの説があります。
一つは評定所の役人が機転を利かせて、杏葉牡丹の紋は市川團十郎の替紋だと認めて問題無しという処分を下したというもの。
もう一つは絵島が取り調べの際に「何の故か、團十郎は私の贈り物を受け取らなかった」と言い張ったため、お咎め無しと決まったというものです。
真実の採決はどちらの理由で決まったのか、今となっては知る由もありませんが「助六」上演されるときには、現在でも「助六」の着物には「杏葉牡丹」の紋が入っているのです。
助六は花道で二度お辞儀をします。
一度目は〽ゆかりの人の御贔屓の…で江島に対する感謝の気持ちをあらわし、
二回目はご見物くださるお客様への御礼です。(『十二代目團十郎著『新版 歌舞伎十八番』より引用)
二代目市川團十郎は絵島とのことがこのままエスカレートすると不味いと思って身を引いたという話もあります。
また驚いたことに江島が本当に付き合っていたのは二代目團十郎であって、生島は犠牲になったという説を、歌舞伎座のイヤホンガイドでお馴染みの小山観翁氏が説いているのです。
そして絵島は拷問されても、生島新五郎との密会については何も自白していません。