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織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【下】

織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【下】:3ページ目

「……夫と共に参りまする」長良川のほとりで逆さ磔に

しかし、艶と虎繁を待っていたのは非情な仕打ちでした。

「……勘九郎(信忠)殿!これは一体いかなる所存か!」

織田方の本陣へ入った二人はたちまち捕縛され、信忠の前へ引き出されました。

「相すまぬ……事情が変わったのだ。父上が『その方ら両名の降伏につき、相許さぬ』と仰せじゃ」

つまり「信忠は降伏を認めたが、鶴の一声(信長の意向)で覆された」ことを知らされ、虎繁は地団駄を踏んで悔しがるも、時すでに遅し。

そのまま二人は岐阜へと護送され、虎繁とその近臣らは逆さ磔(はりつけ)の刑と決まりました。

「……なお、艶殿については女性(にょしょう)ゆえ、ご出家いただいて秋山殿の菩提を……」

「いえ、妾も夫と共に参りまする」

命だけは助けてやろうという信長の意向に背き、艶は自ら夫と同じ逆さ磔を願い出ました。もう二度と、伴侶と離れたくなかったのかも知れません。

「……との由(よし)にございまする」

戻った近習がそう伝えると、信長は健気にも夫に従い、あくまで自分に反抗する艶を忌々しく思ったか「ならば、望み通りにしてくれよう」と長良川のほとりで刑を執行。

天正三1575年11月26日、虎繁は享年49歳、艶は40代半ばと推測されます。

エピローグ

ちなみに、御坊丸は織田家に戻った後に元服・改名して織田勝長(かつなが)と称し、武田家を滅ぼす甲州征伐に参戦していますが、かつて自分を可愛がってくれた信玄たちの思い出が残る甲斐国を制圧する胸中は複雑であったことでしょう。

また、一節には艶と虎繁の間には馬場六太夫(ばば ろくだゆう)という子供がおり、岩村城の陥落直前に逃がされて瀬戸内海の村上水軍に仕えたという伝承が残っているそうです。

六太夫は慶長五1600年9月18日の三津浜夜襲で討死したものの、その墓所は広島県竹原市にあり、近郷には六太夫の子孫が今も暮らしているということです。

そして岩村城址のある艶の地元・岐阜県恵那市では、町おこしのきっかけとして艶たちの功績を顕彰し、その活躍を次世代へ継承する試みが続いています。

【完】

※参考文献:
加藤護一 編『恵那郡史』恵那郡教育会、大正十五1926年
川口素生『戦国軍師人名辞典』学研M文庫、平成二十一2009年
平山優『新編 武田二十四勝正伝』武田神社、平成二十一2009年
木屋青子『馬場六太夫-口伝が明かす波乱の生涯』文芸社、平成十五2003年

 

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