皇族にして朝敵!幕末期、最後まで幕府側に「義」を貫いた北白川宮能久親王の波乱の人生:3ページ目
奥羽越列藩同盟、そして…
ここからが、この能久親王のすごいところです。彼は幕府の海軍に拾われて、翌月には会津若松へと逃げ延びました。そして、東北諸藩が新政府軍に対抗して同盟を組んだ奥羽越列藩同盟の盟主となったのです。
鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗を掲げた新政府軍に敵対したわけですから、皇族にして朝敵・逆賊ということになります。それでも能久親王は本気でした。江戸にいた側近たちに、「速に仏敵朝敵退治せんと欲す」などという書き置きまで残していたのです。
しかし、奥羽越列藩同盟がうまくいかなかったのはご承知の通り。結局、能久親王は新政府軍に降参します。
下手な幕臣などよりずっと「義」に生き、戦地に身を投じた能久親王でしたが、彼の役目はここまででした。
その後は京都で一年間の謹慎処分となり、復帰した後は日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として、1895年に台湾へ出征します。
しかし現地で病に倒れ、帰国療養を勧められますがこれを断り、40度の熱と戦いながら台南の決戦場に赴きます。が、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去しました。
皇族としては初めての外地における殉職者となった能久親王の遺体は本土に運ばれ、国葬に付されています。
当初は「病気で帰国した」と発表されましたが、日本到着後に陸軍大将への昇進が発表され、これとあわせて薨去が告示されるという流れでした。
一時期は台湾の神社でも主祭神として祀られましたが、現在は靖国神社で祀られています。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年