「どうする家康」何が三成を変えてしまった?その最期にネット号泣…第43回放送「関ヶ原の戦い」振り返り

いざ決戦!天下分け目の関ヶ原……ということで、時は慶長5年(1600年)9月15日。徳川家康(松本潤)率いる東軍と、石田三成(中村七之助)率いる西軍が激突。果たして家康に軍配が上がったのでした。

……が。どうなんでしょうね。この回想シーンの多さや、戦闘中に側室・阿茶局(松本若菜)が大坂城を訪れ、茶々(北川景子)に直談判するオリジナルシーンを挟んだり。

それで彼女の活躍?が戦況に何がしかでも影響を与えたならともかく、何にもならなかったのでは、単なる時間の浪費ではないでしょうか。

(家康の命を受けた描写もないため、恐らくは独断。もし囚われでもすれば、家康の足を引っ張りかねません)

挙げ句の果てには家康たちが在りし日の仲間たちを偲び、しばし瞑想する場面などは、本当に戦場にいるのか疑問に思ってしまいます。

ところどころエピソードをかいつまんで、結局は年表通りに決着がついた……そんな印象の関ヶ原でした。

それでは今週もNHK大河ドラマ「どうする家康」、第43回放送「関ヶ原の戦い」の気になるトピックを振り返っていきましょう!

目次

徳川軍から見た関ヶ原。『東照宮御実紀』より

さて、それではまず関ヶ原合戦の全容をざっくりつかむため、江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』をひもときましょう。

……明れば九月十五日。敵味方廿万に近き大軍関原青野が原に陣取て。旗の手東西にひるがへり汗馬南北にはせちがひ。かけつかへしつほこさきよりほのほを出してたゝかひしが。上方の勢は軍将の指揮も思ひ思ひにてはかゞかしからず。剛なる味方の将卒にきり立られ。其上思ひもよらず兼て味方に内通せし金吾秀秋をはじめ裏切の輩さへ若干いできにければ。敵方に頼み切たる大谷。平塚。戸田等をはじめ宗徒のもの共悉くうたれ。浮田。石田。小西等もすて鞭打て伊吹山に逃いり。島津も切ぬけ。其外思ひ思ひに落てゆけば。味方の諸軍いさみ進て首をとる事三万五千二百七十餘級。見方も討死するもの三千餘ありしかど。軍将は一人も討れざりしかば。 君御悦大方ならず。(大道寺内蔵助が物語とてかたり傳へしは。凡関原の戦といふは。日本国が東西に別れ。双方廿万に及ぶ大軍一所に寄集り。辰の刻に軍始り。未の上刻には勝負の片付たる合戦なり。かゝる大戦は前代未聞の事にて。諸手打込の軍なれば作法次第といふ事もなく。我がちにかゝり敵を切崩したる事にて。追留などと云事もなく四方八方へ敵を追行たれば。中々脇ひらを見る様な事ならずと見えたり。是目撃の説尤實とすべし。)……

※『東照宮御実紀』巻四 慶長五年「関原対陣」

これによると、関ヶ原の合戦は9月15日の午前8:00ごろ(辰の刻)に始まり、午後2:00ごろ(未の刻)に決着したようです。

一丸となって戦った東軍に対して、各自がめいめいに戦った西軍。そんな中で、かねて内通していた小早川秀秋(嘉島陸)らが東軍に寝返り、形勢は一気に傾きます。

大谷吉継(忍成修吾)・平塚為広・戸田勝成ら名だたる武将らが相次いで討死。宇喜多秀家(栁俊太郎)・石田三成・小西行長(池内万作)らは捨て鞭を打って逃げ出しました。

最後まで居座っていた島津義弘も敵前を正面突破で戦線離脱、かくして東軍は勝利を収めます。

討ち取った首級を数えてみたら、実に35,270余り。対して味方の討死は3,000余りながら、大将格の討死は一人もいませんでした。

劇中では家康のセリフから、死者およそ8,000とされていましたね。随分開きがありますが、諸説あるようです。

ともあれ天下分け目の大戦さを制した家康の喜びは、実に大きかったことでしょう。

4ページ目 戦後の論功行賞、真っ先に黒田長政を絶賛

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了