織田信長に追放された佐久間信盛(立川談春)の悲劇的な最期【どうする家康】:2ページ目
温泉で事故死?佐久間信盛の末路
さて、追放された佐久間信盛。その後どうなったのでしょうか。
……八年明智光秀が讒によりて右府の勘気をかうぶり、紀伊国高野山にのがれ、のち病を癒せむがため同国十津川の温泉に浴し、十年正月二十四日彼地にをいて死す。年五十五。法名宗祐。葬地信晴におなじ。
※『寛政重脩諸家譜』巻五百三十一 平氏(良文流)佐久間
高野山へ逃れた後、病を得て十津川の温泉へ湯治に行った信盛。天正10年(1582年)1月24日に55歳でこの世を去りました。
信盛の死因については、純粋に病の悪化をはじめ事故死(足をすべらせて崖から転落)とか暗殺(他家への出奔を懸念した信長による粛清)など、諸説あると言います。
『信長公記』によると信長はその死を哀れみ、息子の佐久間信栄(のぶひで。甚九郎)を赦免しました。
正月十六日 先年 佐久間右衛門父子 蒙御勘当致他国紀伊国熊野奥尓て病死仕候不便ニ思食候歟 子息 甚九郎事国之安堵御赦免儀被仰出濃州岐阜祇候いて 三位中将信忠卿へ御禮被申上候也
※『信長公記』巻之十五 天正十年壬午
……ん?『寛政重修諸家譜』では1月24日に死んでいるはずの信盛を、信長が1月16日に悼むのはおかしいですね。
史料的には当時のリアルタイムで作成された『信長公記』の方が信憑性に富むため、恐らくこちらの方が近いでしょう。
(ただし十津川で病死した報せが、その日の内に届いたかは微妙。多少のタイムラグが考えられます)
終わりに
さて、大河ドラマ「どうする家康」を振り返って佐久間信盛の人物紹介がこちら。
家康に難題を突きつける食えない男
佐久間信盛 さくま・のぶもり
[立川談春 たてかわだんしゅん]信長の父・信秀の代から織田家に仕える筆頭家老。信長の無謀さや羽柴秀吉、柴田勝家たち次世代の台頭に危機感を覚えつつも、織田家の足元を支える老獪な政治家。東部方面の戦略、徳川の監視役を任され、家康に無理難題をたびたび突きつける。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より
正直なところ、もう少し信盛の無理難題……もとい活躍が見たいところでした。初登場から全体を通して、信長の腰巾着にしか見えず残念です。
立川談春の渋いキャラクターを、また他の作品でも魅せてもらえるのを、楽しみにしています。
※参考文献:
- 近藤瓶城 編『改定 史籍集覧 第十三冊』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 太田牛一『信長公記 巻下』国立公文書館デジタルアーカイブ
トップ画像 写真: 大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより