15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(下):2ページ目
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雷神となって敵を蹴り殺す!タダでは死なない悪源太
さて、あっさり降伏した藤原信頼は処刑されましたが、義平は義朝の命令で再起の兵を集めるべく、信州(現:長野県)方面へと向かいます。
しかし、義朝が尾張国(現:愛知県西部)で暗殺されると、父の仇をとるべく単騎で京都へ舞い戻ります。
「あの悪源太が、復讐にやってくる!」
そう震え上がった平清盛は京都の守りを厳重に固め、ついに捕らえられた義平は、六条河原で斬首されました。
時に永暦元1160年1月25日、享年20歳でした。
しかし、ここでもまた悪源太の勇猛さを示すエピソードが残されています。
六条河原でいよいよ斬首となる義平は、処刑前に言い放ちます。
「よぅ、首を斬るなら上手くせんと、貴様の面に喰いつくぞ!」
……雁字搦めに縛られておるくせに、よぅ言うわい。
斬首役の難波三郎経房(なにわの さぶろうつねふさ)はそう鼻で嗤いますが、義平は怯みません。
「何も今とは言っておらん。雷神となって蹴り殺してやるわい!」
その予言通り、義平の死から8年後、経房は落雷により真っ黒こげとなって死んでしまいました。
それで人々は「悪源太の祟り」と恐れたと言われます。
終わりに・悪源太の遺した坂東武者の矜持と精神
生粋の坂東武者として東国に武勇をとどろかせ、貴殿に飼いならされぬ矜持を示した「鎌倉悪源太」義平。
たとえ義平が殺されても、その精神は二十数年の歳月を経て異母弟・頼朝公に受け継がれ、やがて興る武士の世の礎となりました。
権力におもねらず、自分の力で勝ち取るものにこそ価値がある。
義平をはじめとする武士たちの生き方は、現代の私たちに大切なことを訴え続けます。
【完】
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