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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

無事に鯨を海に返し、師弟二人肩を並べて歩く帰り道、国芳は豊国にずっと訊きたかった事をついに口にした。

「なあ、歌川の絵って何なんだ、父っつぁん」

国貞がいつも口うるさく言うあの言葉の意味を、国芳は知りたかった。

豊国が答えた。

「夢を描くのさ、人の」

「人の、夢・・・」

「例えば贔屓の役者がいて、その役者が年老いた時にその皺や老いを絵師がそのまま錦絵に描き出しちまったら、絵を手に取る者は皆がっかりするだろう。歌川の絵師はそういう事はしない。ただひたすら、人の夢を描く。浮世は、夢よ」

「それって、嘘じゃねえか」

国芳がぽそりと言うと、豊国は少し困った笑みをして空を振り仰いだ。

「嘘じゃなくなっちまったら、それアもう浮世じゃねえ。ただの、くだらねえ現実だ。・・・・・・」

視線の先には、藍甕に浸して染めたのではないかと思うくらい澄んだ青をした、綺麗な空がある。

「だが、わっちのやり方が全てだとは思わねえ。夢の描き方は他にまだあるかもしれねえ。よく聴け、芳。人が何と言おうが、おめえはおめえの思う夢を描けばいい。下手に優等生ぶろうとして、つまらねえ絵師にだけにゃ絶対になるんじゃねえぞ」

あと、と豊国が工房に着く前に一つだけ付け加えた。

「この話は、国貞には内緒な」

こんな事を奴の前で言ったら怒るからな、わっちとおめえだけの秘密だ。・・・・・・

その「秘密」という言葉の響きが、国芳の胸をくすぐった。

やがて二人は上槙町の工房前の露地に着き、国芳がいつも通り左に折れようとすると、豊国は右に折れようとした。

「じゃあな」

豊国が急に手を振った。

「じゃあなって、父っつぁんどこに行くんでい。工房は左だろうがよ」

「おめえは左に行け。わっちゃア行かなきゃならねえ場所がある」

「父っつぁん、そんならおいらも付き合うよ」

「駄目だ」

(あれ・・・・・・)

国芳は初めておかしいと思った。

急に身体に力が入らなくなり、腕一つも上がらない。

そうしているうちに、豊国のあごの張った優しい笑顔が遠のいてゆく。

「芳、達者でな・・・・・・」

何故気が付かなかったのだろう、手を振る豊国の顔がひどく青白い。

(父っつぁん・・・・・・!)

(父っつぁん!父っつぁん!)

その名を呼びたいのに声が出ない。

その手を掴みたいのに、腕を伸ばす事も出来ない。

置いて行かねえで。

わっちも連れて行って。

父っつぁん。・・・・・・

「父っつぁん・・・・・・!」

はっと目を覚ますと、佐吉が見事な切れ長の目で心配そうに国芳の顔を覗いていた。

「大丈夫か。随分うなされていたぜ」

「朝か」

「朝だよ。朝餉は蝿帳の中に・・・・・・」

「わっちゃア、行かなきゃなんねえ」

国芳は飛び起きた。

慌てて房楊枝を咥え、うがいをし、どてらに三尺帯を締めて立て付けの悪い腰高障子の外へ飛び出した。

おはよう、おはようとすれ違う長屋の人々の間を縫うように駆け抜け、木戸門をくぐる。

「何であんな大事な事を忘れられたんだろう」、

つまらねえ絵を描くなと、初めてわっちに教えてくれたのア、父っつぁんだったのに。

・・・・・・

 

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