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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

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国芳の周囲は呆れたように言いながらも、江戸ッコはこういう馬鹿らしい事が大好物なのである。わらわらと任侠風の男共が鯨の頭の周りに集まり始め、やがて男も女もしまいには子どもまで手伝って、打ち上がった鯨を海に帰そうと国芳と一緒に大鯨の巨躯を押し始めた。国芳は嬉しくなって皆と一緒にがむしゃらに押した。ところがいくら押してもさすがに十間近い大鯨はびくともしない。しばらくすると腰が砕けそうになり、国芳は手を止めた。

「こりゃ、てんでんばらばらで押しても意味がねえ」

少し思案して、

「あ、父っつぁん!父っつぁんッ!」

国芳はいつのまにか隣で一緒になって鯨を押していた豊国に声を掛けた。

「なんだこのヤロウ!」

豊国は背美鯨に似たしゃくれ顎を突き出し、歯を食いしばって返事をした。

「父っつぁん、ここにいる全員を今から父っつぁんが一つにまとめてくだせえ!」

「はあ?」

「まあ一つ、見ててくんねえ」

身軽な国芳は大きな鯨の上にぴょんと飛び乗った。

「エー、皆!ちょいと聞いつくんねエ!このマヌケな大鯨のために手伝ってくれてありがとうごぜえやす!このままてんでばらばらに押しても埒があかねえんで、ここは一つ、音頭を取って息を合わせようと思いやす!音頭を取るなア、おいらの絵の師匠にして天下の大浮世絵師、歌川豊国先生!」

「エ!」

「豊国だと!」

江戸ッコたちは一気に色めき立った。この中に本物の歌川豊国の顔を知る者は恐らくいない。しかし、豊国の指先から生み出された錦絵の数々は、江戸ッコならば誰しもがよく知っている。知っているどころの話ではなく、ひとたび新しい摺物を売り出せば皆がこぞって地本問屋に押しかけて買い求める、押しも押されもせぬ大御所絵師である。視線を一手に受けた豊国は、驚きながらも怯む様子はなく、内から鷹揚たる威厳を滲ませていた。誰が聞かずともその立ち姿こそが本物の歌川豊国である事を物語っていた。

「たぶん、本物だ!」

「本物の歌川豊国だ!」

彼方此方から声が上がるのを制し、国芳は続ける。

「今から、父っつぁんのエイエイオーの掛け声で、皆一緒にこの大鯨を押してくだせえ!」

「ふうん、面白え」

「乗ってやろうじゃねえか」

興奮した声がそこかしこから飛んだ。

国芳がしめたと手を握り込んだ時、直ぐ傍で国芳を見上げている一人の前垂れの娘が目を輝かせながら孫三郎に訊いた。

「上手くいったら豊国の絵、おくれよ?」

国芳はちらりと豊国を見遣ったが、こちらをギロリと睨みつけているのを見てこほんと咳払いした。

どうやら不承知である。

「エー、この鯨が海に戻った暁にア、お返しに、おいらがいつかかならず皆が喜ぶ鯨の絵を描いて、皆に差し上げます!これア、約束でさア」

途端に彼方此方から不満の声が上がった。

「豊国の絵じゃねえのかよ!」

「おめえは誰だクソガキ!」

マアマア、と国芳は聴衆を宥めてすうと呼吸を吸い込むと、奥の品川宿に届くほど大きな声で一気に啖呵を切った。

「おいらア、歌川豊国が門弟、歌川国芳!ガキはガキでも、十年後にゃアかならず江戸一の絵師になるクソガキでい!」

聴いていた者は猫も杓子も皆が笑った。

「なかなか言いやがるな、このガキ!豊国先生、こいつが江戸一になるってえのは間違いねえんですか!」

「アア」、

豊国は鯨の上の国芳を見上げて、その肩越しの日輪の眩しさに目を細めながら頷いた。普段への字に引き結び、あまり弟子が喜ぶ事を言わないその口が、噛みしめるようにその言葉を紡いだ。

「違げえねえとも」。

「え、父っつぁん、今なんて・・・・・・」

国芳が訊き返そうとしたのを遮り、

「豊国先生が言うなら間違いねえ。てめえら!やるぞ!」

江戸前の人々が威勢良く立ち上がり、こうして豊国の掛け声で大人数が力を合わせて鯨を押す事となった。

「エイエイ」を豊国が言い、「オー」の時に一斉に皆で押す。そうこうしているうちに、江戸前で歌川豊国が指揮を執って打ち上がった鯨を海に返そうとしているという噂は瞬く間に宿場全体に広まり、どんどん人が集まってきた。漁師、旅客、商人、飯盛女などが入れ替わり立ち替わりとめどなく鯨を押し続け、それでもビクともしないとなると国芳はいよいよ見かねて、

「コリャアいけねえ。なんか綱、持ってくらア」

国芳が船の片付けをしている漁師たちに手早く事情を説明すると、太い綱を貸してもらえた上に漁師たち自身も手伝うと言って三人ばかし付いてきた。

「父っつぁアん!」

「エイエイ・・・・・・何だア!芳!」

興に乗ってきたのか大声で掛け声を発していた豊国が振り返った。目の先に、無邪気な笑顔の孫三郎が映る。

「網持ってきたぜ!この優しい漁師さんたちがね、貸してくれたんでい」

「ああ、そりゃありがてえ。まあ、そもそもわっちが何故こんなに必死になって鯨を助けようとしているのかさっぱり分からねえがな」

国芳はニヤリとした。

豊国もその顔を見てニヤリとし、

「ようし!網を鯨の身体に括るぞ!力自慢の旦那たちゃア海に入って、この網で一緒に鯨を引っ張っつくんねい!他は、陸で鯨を押すぞ!」

生き生きと声を張った。

気がつけば、国芳が鯨が生きていると気が付いてから、一刻半ほど経っていた。

海はまだ凍るほど冷たいというのに、その人集りだけ、やけに大きな熱気を発散している。

まだ十六で大人より体力の少ない国芳は寒さと鯨の重さでもうヘトヘトであったが、他の男たちの掛け声に逆に支えられながら網を引いていた。

「エイエイ!」

「オーッ!」

これが何度目の掛け声であろうか。

いよいよ国芳の意識も遠くなろうかというその瞬間であった。

綱が、今までにない手応えで動いた。

「!?」

男たちが飛沫に阻まれながらも目配せを交わし、渾身の力で綱を引いた。

少しずつではあるが、確かに、巨大鯨の身体が海の方に引き寄せられている。

「あと少しだ!行くぞオ!」

「オーッ!」

それを幾度か重ねると、ついにドウッと一気に鯨の黒々とした身体が海に雪崩れ込み、孫三郎をはじめ綱を引いていた者たちは慌てて脇に飛び退いた。

背美鯨の美しい背中の曲線が、大きな水鞠をはじいて輝いた。

鯨は何か言いたげに江戸前の海を悠々と旋回し、やがて海の中に見えなくなった。

「無事、海に帰ったのか」

「・・・・・・ヤッタア!」

江戸ッコたちは皆一様に濡れ鼠になって、抱き合って喜んだ。国芳は揉みくちゃにされながらも咄嗟に矢立を取り出して、鯨が悠々と海に戻る様子を描きつけようとした。が、

「ずぶ濡れで描けねえし読めねえ!」

こうなれば仕方ない。

(今はもう、いいや!)

頭の中に焼き付けておくよりほかない。幸い、この一刻半、鯨を押しながら仔細に観察する事もできた。

(それより。・・・)

視線が、ぴたりと合った。

ずぶ濡れの国芳と、陸の上の豊国と。

二人はどちらともなく駆け寄って、ひしと抱き合った。

「やった!やったよ!父っつぁん!」

「やった!やったなア!芳!」

それは、本物の父親とも交わしたことのない、力強い抱擁であった。

・・・・・・

 

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