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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

◾文政八年、一月

朝五つ。

仕事に出始める町の大工たちにぶつからないように右に左にと避けながら、国芳は小さな親父橋渡った。尻からげの行き交う本舩町の魚河岸の賑わいもいつもなら足を止めて知り合いの一人にも声を掛けるところだが、今日は目もくれず通り過ぎた。

緩やかな半月を描く日本橋を渡り、縄縛りの罪人が頭を垂れる大高札場を横目に過ぎて日本橋通りの四丁目を右に入るともう、懐かしい工房に着いた。

ほんの一瞬生じた迷いを振り払い、国芳は十余年ぶりに豊国の住まいの敷居を跨いだ。声をかけるとすぐに女中が現れ、土けむりにまみれた国芳に水盥を差し出した。よほど鬢の乱れが気になったのか櫛まで貸してくれ、国芳が足を洗って鬢を整える間に、女中は奥へ人を呼びに走った。

「はいはい、どちら様。・・・・・・あら」、

奥から国芳を迎えたのは、豊国の内儀のおそのであった。おそのは国芳の顔を見てひどく驚いた表情をした。

「・・・・・・国芳さん?」

「お久しぶりでござんす」

国芳は気恥ずかしげに腰を低くして挨拶した。

「本当!久しぶりね!良い男になっちゃって!まあまあ、ようこそいらっしゃいました」

おそのは懐かしそうに声を上げた。おそのは豊国が四十を越した頃に僅か十六歳で嫁した身だ。その頃と比べれば年増になったとはいえまだ三十そこそこで、年齢だけいえば国芳が一番近いくらいだ。多少の面やつれは見えるものの頬はもちのようにまあるく、細い鼻に円らかな目を持つ美しい内儀である。

その背後の部屋から、十歳そこそこくらいの可愛らしい少女がちらりと顔を覗かせた。

「おきんちゃん・・・・・・?」

国芳はおずおずと訊いた。おきんとは豊国の娘の名である。国芳が知っているおきんは、まだ生まれたての小さな赤ん坊であった。おきんは小さな顔を真っ赤に染め、慌てて顔を引っ込めた。

「あら、きんったら照れてしまって。ご無礼お許しくださいましな。あの子も大きくなったでしょう」

「ああ、本当に・・・・・・!」

国芳は驚嘆した。

おそのが言うにはおきんの手習い事が多く、平素おそのはそちらに付きっ切りで離れられないために、豊国の事は国貞を主とする弟子たちが交代で看ているという。

「女の子は嫁入りまでに色々習わせる事があるから大変です」

「もうそんな年齢なんでやすか」

「ええ、あの人が歳を取るはずです」

さらりと、おそのは豊国の話を出した。

「あの、実は本日は先生の見舞いに・・・」

国芳は、手土産として照降町翁屋太兵衛の翁せんべいを差し出した。佐吉が気を利かせて持たせてくれたのである。

「あら、ありがとうございます」、

あとでお茶と一緒にお出ししましょうね。

おそのはそう言って、細い指を揃えそそとしたしぐさで包みを受け取った。

「あの人に、早くその元気そうなお顔を見せてやってくださいな・・・・・・」

おそのに促され、奥の病床に国芳は通された。

「あんた、国芳さんが戻りましたよ。・・・・・・開けますよ」

おそのが一声かけて、障子を開いた。

国芳は、顔を上げた。

あんなに賑やかだった人が、悲しくなるほど静かな部屋の中央にひっそりと身を横たえていた。

奥に、国貞がまるで通夜のように佇んでいる。彼は床の間に据えられた花器を手入れしていた。芍薬の花が一つ悪くなり始めているのが気になるらしい。

国貞は一瞬顔を上げて国芳を見て頷くと、先生にご挨拶するようにと手振りで促した。おずおずと入った国芳は一人、豊国の枕頭に座った。

眠る師の顔を覗き込み、この人はこんな顔だったろうかと思った。国芳の知っているこのあごはもっと背美鯨のように張り、国芳の知っているこの頬はもっと赤みが差してふくよかで、国芳の知っているこの髪にはもっと艶があり弾けるような生気が通っていたのではなかったか。

「父っつぁん」

豊国は顔の上に国芳の消えいりそうな声が降って初めて、目を開いた。長らく会わずにいた師の病みついた目の玉には、目脂(めやに)だけでなく何か死に近い濁ったものが浮いている気がした。

豊国は乾いたくちびるを開いた。

「国芳、か」。

うん、と国芳は頷いた。

「ただいま、父っつぁん」

涙がぽつんと、こぼれ落ちた。

馬鹿野郎、と豊国はしわがれた声で言った。

「帰りが、遅すぎだ」

「うん」

「今度お前が来たら一言、言ってやろうと思ってた」

「うん」

末の弟子でありながら悪態をついて飛び出し、こうなるまで一度も師の事を顧みなかった。

罵られても、馬鹿にされても構わない。

ただずっとこうして、師と言葉を交わしたかった。

豊国は唇の隙間から風の漏れるように静かに笑って、震える手で懐から何かを取り出した。広げて見せたのは、昨年の月見で国芳が描いた「雪月花」の「月」の図であった。長い事懐に仕舞っていたのか、くしゃくしゃになっている。

「おめえ、良い絵を描くようになったな・・・・・・」

国芳の目は大きく見開かれた。

「そりゃねえよ、父っつぁん・・・・・・」

国芳は、力の抜けるような声でフハッと笑った。

「国貞兄さんにいつも言うみてえに、ここが駄目だとかこの線が歪んでるとか、もっとなんか、言う事アねえのかよ。なんでわっちにはそれだけ・・・・・・ッ」

最後までは言えなかった。

 

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