『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!明智光秀(要潤)を極限まで追い込んだ信長政権の現実
本能寺の変をめぐっては、明智光秀(要潤)の「信長への怨恨」や「天下取りの野望」といった説が広く唱えられてきました。
しかし近年では、それだけでは説明できないという見方も有力になっています。織田信長(小栗旬)のもとでの長年にわたる戦いと重責、相次ぐ諸将の裏切りと家臣団の粛清による将来への不安。
そして信長のあまりにも苛烈な統治。そうしたさまざまな要因が重なり、光秀を極限まで追い詰めていたのではないでしょうか。
今回は、本能寺の変を引き起こした「光秀の心理」に焦点を当てます。
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光秀を追い詰めた老いと織田家の過酷な現実
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」。
実行したのは光秀ですが、彼を動かした黒幕あるいは共謀者としては、室町15代将軍・足利義昭(尾上右近)、大坂本願寺の顕如、正親町天皇(おおぎまちてんのう)、イエズス会をはじめ、徳川家康(松下洸平)、羽柴秀吉(池松壮亮)までさまざまな説が唱えられてきました。
光秀が謀反を起こした理由についても、昔からよく言われていた信長に対する「怨恨説」、自分が天下人になりたいという「野望説」などが挙げられています。しかしその真相は未だに闇の中ゆえに、さまざまな解釈がなされ、ドラマや映画でもいろいろな解釈で描かれてきました。
『豊臣兄弟!』第27回「本能寺の変」では、長宗我部元親(長宗我部元親)への処遇変更や津田信澄(緒形敦)への嫌疑、さらに義昭の密書などが重なり、光秀が決断へと追い込まれていく様子が描かれるようです。
ただ、筆者が前稿(「本能寺の変は“老い”が引き金だった?明智光秀を謀反へ追い込んだ「残り時間」という恐怖」)で述べたように、本能寺の変が起きた1582年(天正10年)の時点では、光秀はどんなに若く見積もっても50代半ばに達していました。
もはや人生の終盤に差し掛かろうという光秀にとっては、将来への不安や焦りがあったのは間違いないでしょう。それは光秀自身だけでなく明智家、すなわち家族や家臣たちの行く末への不安が大きかったのではないかと推測できます。




