『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!明智光秀(要潤)を極限まで追い込んだ信長政権の現実:3ページ目
戦場と政務に追われ続けた光秀の10年間
非情なまでの「働き」を家臣に求めた信長。それは能力という面で、織田家中で群を抜いていた光秀も同様であったでしょう。信長が義昭と対立を深めて以降に絞り、光秀の主な働きを年表で見てみましょう。
●1570年(元亀元年):金ケ崎の戦い(退却戦の殿を務める)、姉川の戦い
●1571年(元亀2年):比叡山焼き討ち
●1572年(元亀3年):小谷城攻め(水軍を率いる)
●1573年(天正元年):槇島城の戦い(義昭を都から追う)、一乗谷の合戦(朝倉・浅井家滅亡)
●1574年(天正2年):明智城の戦い(武田勝頼の侵攻に対応)
●1575年(天正3年):長篠の戦い、丹波攻略戦(第一次黒井城の戦い)
●1576年(天正4年):石山本願寺の戦い、丹波攻略戦
●1577年(天正5年):信貴山城の戦い、丹波攻略戦
●1578年(天正6年):丹波・丹後攻略戦(亀山城を築城)
●1579年(天正7年):丹波平定・丹後経略(八上城を落す)、播磨攻略戦
●1580年(天正8年):丹波・丹後攻略完了(福智山城を築城)、近畿方面軍司令官就任
●1581年(天正9年):京都馬揃えの担当就任
●1582年(天正10年):武田家征伐に信長のともとして従軍、徳川家康接待役、中国戦線、本能寺の変
いかがでしょうか、1570年からの10数年はまさに戦場往来の日々。それだけではありません。戦いの合間を縫って、近江・丹波・丹後という領国の統治、与力大名への差配、岐阜・安土へ出仕しての信長近侍など、驚くほどの多忙な日々を送っていたのです。
いかに卓越した能力を持つ光秀とはいえ、これでは心身ともに疲れ果てて当然です。それに加えて、浅井長政(中島歩)、松永久秀(竹中直人)、別所長治(下川恭平)、荒木村重(トータス松本)ら諸将の裏切り、宿老たちの粛清。そのような要素が複雑に重なり合い、「本能寺の変」へと動いていった可能性は十分に考えられるでしょう。
しかし卓越した能力をもつ光秀が、それだけで織田信長を討つという決断に至ったとは考えにくいのも事実です。
本稿の続きとして、長宗我部元親への対応をめぐる問題や武田勝頼との関係、さらに家康共謀説など、近年も議論が続く諸説を交えながら、「本能寺の変」のもう一つの側面に迫ります。
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