「八重洲」の地名の由来はオランダ人のあのヤン・ヨーステン!…で、ヤン・ヨーステンって誰?:2ページ目
2ページ目: 1 2
説得の熱弁に心を動かされたのか、2人を気に入ってしまった家康。征夷大将軍に就くと2人を江戸に呼び、貿易関係の仕事を任せました。2人は家康から江戸に屋敷と、ヨーステンは「耶楊子(やようす)」、アダムスは「三浦按針」という日本名まで与えられたのです。ちなみにヨーステンもアダムスも日本人女性と結婚し、子供も産まれました。
ヨーステンは日本とオランダの貿易発展に尽力しましたが、ジャカルタから日本に戻る船が難破し、そこで亡くなってしまいました。67歳くらいだったそうです。
ヨーステンに与えられた屋敷が、現在の日比谷の近くにあり、その場所をヨーステンの日本人名「耶楊子」からとって、「八代洲(やよす)河岸」と呼ぶようになりました。その後、「八代洲」が「八重洲」と書かれ、明治5年(1872)に初めて町名になったのです。
東京駅でヨーステンさんに会ってみよう
現代では八重洲の地名でその足跡を垣間見ることができるヨーステンさん。実は、東京駅で会うことができます!
八重洲地下街の外堀地下1番街。お店の脇にひっそりといらっしゃいました。見落としてしまいそうなくらい、ひっそりと建っているので、気を付けて探してみてくださいね。
こちらは日蘭修好380周年を記念して建てられた、ヤン・ヨーステン記念碑。左はヨーステン。右が彼が乗っていたリーフデ号です。この碑は八重洲中央口を出て、八重洲通りをまっすぐ進んだ中央分離帯にあります。こちらも少しわかりにくい場所にあるので、ご注意! 平和の鐘が目印です。
数奇な運命から、日本に住むことになり、地名として現代まで残ったヤン・ヨーステン。東京の真ん中で、彼が生きた大航海時代に想いを馳せてみるのも楽しいかもしれません。
ページ: 1 2