天狗修行の奇行、男色で実子なき権力者!「半将軍」細川政元の巨大政権が56年で崩壊した真相
将軍をも凌ぐ権力を誇り「半将軍」と呼ばれた細川政元(ほそかわ まさもと)。しかし奇行や男色による実子不在から3人の養子を迎え、骨肉の後継者争いが勃発します。
外敵ではなく身内の争いと新勢力・三好長慶の台頭によって、56年続いた細川政権が崩壊した真相を解説します。
半将軍と呼ばれて
戦国時代の少し前、京都には将軍以上ともいえる権力を持つ人物がいました。それが細川政元です。
細川氏は讃岐、阿波を中心に、河内・和泉、京都まで広い地域を支配していました。さらに物流の要となる港湾都市、堺も押さえていたのです。
政元が権力を大きく伸ばしたきっかけは、一四九三年の明応の政変でした。十代将軍足利義材を追放し、十一代将軍に義澄を立てたことで、幕府の人事権と軍事力を掌握したのです。
戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】
朝廷にも強い影響力を持っていた政元は、当時半将軍と呼ばれていました。管領という役職を越えて、幕府の政治そのものを動かす存在だったわけです。
しかし政元は、政治能力だけでなくかなり変わった一面も持っていました。仙人や天狗に憧れ、突然修行を始めるという奇行を人々に見せたこともあったのです。
戦国時代、魔術にドハマりして空を飛んだ!?”魔法半将軍”と呼ばれた武将・細川政元
また、女性よりも男性を好んだため結婚はせず、実子がいませんでした。となると当然、後継者問題が勃発します。
そこで彼は養子を迎えましたが、その数は三人。関白九条政基の子である澄之、阿波守護細川家の澄元、備中守護・細川政春の子である高国です。
巨大な権力者の後継候補が三人もいたわけで、混乱が起きるのは必至です。ここで細川政権には暗雲が立ち込めてきます。
三人の養子
政元の最期は一五〇七年でした。最初の養子である澄之の家臣によって、浴室で身を清めている最中に刺殺されたのです。一四九三年の明応の政変から、わずか十四年後の出来事でした。
巨大な権力を築いた政元でしたが、その死を境に後継者争いが表面化します。
中心となったのは、阿波の細川澄元と和泉の細川高国でした。さらに、かつて十代将軍だった足利義材も復権を目指してこの争いに加わります。
義材は安芸の有力守護である大内義興に支えられて上洛しました。そして和泉の細川高国と結び、再び将軍の座に返り咲いた時期もありました。
高国も管領の座につきましたが、義材との関係は長く続きませんでした。対立した義材は淡路へ逃れ、その後は阿波へ移り、一五二三年に死亡しています。
義材を追放した高国は、十一代将軍義澄の子である義晴を十二代将軍にしました。ところが、ここで阿波の細川澄元の遺子、細川晴元が反発します。
晴元は義晴の弟である義維を将軍として擁立し、高国に対抗しました。細川氏内部の争いが、将軍の継承問題まで巻き込んだのです。
結局、最終的には晴元側が勝利しました。義晴は嫡男の義輝を十三代将軍にしています。
2ページ目 細川政権を終わらせた男!新星「三好長慶」の登場と下剋上




