【豊臣兄弟!】佐々成政の切腹理由、鍋丸は実在?母が暴く秀次の本心…忍び寄る豊臣家“崩壊の兆し”
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第42回放送では、豊臣秀吉(池松壮亮)が天下人としての権威を世に知らしめるため、後世に伝わる北野大茶湯を開催します。
しかし華やかな茶会の裏では、秀吉をめぐる秀長(仲野太賀)と秀次(山田涼介)の対立やキリシタンの追放、そして肥後国一揆など豊臣政権の暗部も描かれていました。
今回は「北野大茶湯」気になるトピックを振り返ってまいります。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」に関して、こちらの記事もオススメです。
【豊臣兄弟!】絶頂の兄弟を襲った暗雲!秀吉の『北野大茶湯』がたった1日で中止になった本当の理由
【豊臣兄弟!】あさひ急死の裏で強行…秀吉が徳川へ送った「第二の身代わり」6歳の幼子・小姫の儚い生涯
追放された高山右近の末路は
天正15年(1587年)に発せられた伴天連追放令(バテレンついほうれい)の影響で改易された高山右近は、その後どうなったのでしょうか。
はじめ同じキリシタン大名だった小西行長(こにし ゆきなが)に庇護された後、翌天正16年(1588年)に前田利家(大東駿介)の元へ預けられます。
前田家では囚人のような扱いを受けていたものの、後に2万6千石の所領を与えられ、領内でキリスト教の伝道に勤しみました。
その影響で前田家臣の中にもキリシタンへ改宗するものがいたそうですが、これを秀吉は咎めなかったのでしょうか。
その後も前田家臣として活躍し、前田利長(としなが。利家嫡男)も補佐してその施政を助けました。
しかし秀吉が亡くなり、豊臣家から天下の実権を奪った徳川家康(松下洸平)が慶長19年(1614年)にキリシタン追放令を発すると、右近はマニラ(現フィリピン首都)へ追放されます。
そして翌慶長20年(1615年)1月6日にそのまま現地で世を去りました。
秀吉ははじめは豊臣政権に復帰させたかったそうです。しかし高山右近の信仰はあまりにも堅かったため、たとえ表向きであっても覆すことはできませんでした。
劇中での一途さは、そのことをよく描いていたと思います。
千利休の指摘
はじめは同じ方向を向いていたけど、目標を達成して互いに向き合うことで、互いの嫌な部分が見えてくるもの。千利休(吉岡秀隆)の指摘は、現代でも思い当たる方が多いのではないでしょうか。
これまで天下人になる(天下人にする)と同じ目標に向かって力を合わせてきた豊臣兄弟ですが、いざ天下人になったらなったで、お互いの相違が違和感を招き始めています。
天下人としての権威を示すことで、平和な世の実現を加速させたい秀吉。それに対して秀長は、平和な世の中を磐石のものとすることで、おのずと天下人としての権威が備わって来ると考えました。
「大名は我らのオモチャではない」
自分たちの意のままに動かそうとすれば、必ず反発を招き、それは遠からず暴発して世を乱すことになるでしょう。
現に肥後国で強権を振るおうとした佐々成政(白洲迅)は国衆の反感を募らせ、それが大規模な一揆の勃発を招きました。
逆らう者をねじ伏せる力を持ったからこそ、その使い方には細心の注意を払わねばなりません。
果たして秀長は秀吉そして秀次の暴走を防げるのでしょうか。
2ページ目 突如現れた「鍋丸」って一体誰?直の遺児と大和大納言家の継承



