【ブラッサム】言論弾圧に屈せず…山中勇三(井浦新)のモデル候補・嶋中雄作『婦人公論』創刊者の生涯
朝ドラ「ブラッサム」には、魅力的な人物が数多く登場します。
首都公論の編集長・黒崎大三郎の右腕として、主人公の成長を見守る副編集長・山中勇三もその一人です。
実はこの勇三には、ちゃんとしたモデルがいました。モデルとなったのが、中央公論社の嶋中雄作(しまなか・ゆうさく)です。
雄作は奈良に生まれ、東京に進学。やがて中央公論社に就職して編集者としての頭角を表しはじめます。
雄作は婦人雑誌である『婦人公論』を創刊。宇野千代がデビューしたのと同時代のことでした。
しかし華々しい活躍とは裏腹に、雄作は戦争へと突き進む時代の荒波と戦うこととなります。
嶋中雄作は何を思い、何を目指し、どう生きたのでしょうか。
嶋中雄作の生涯について見ていきましょう。
朝ドラ「ブラッサム」の話題は、下記記事でも取り上げています。ぜひご覧ください。
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奈良から中央公論社へ入り、『婦人公論』を創刊する
明治20(1887)年2月2日、嶋中雄作は、奈良県磯城郡三輪町で医師・嶋中雄碩の子として生を受けました。兄には、のちに社会運動家として活躍して、東京市議会議員となった雄三がいます。
雄作は畝傍中学校を経て、大正元(1912)年10月に早稲田大学哲学科を卒業。同月に中央公論社へ入社します。
この入社にあたっては、早稲田大学の教授であり、雄作の恩師・島村抱月と金子筑水の推薦があったようです。
いわば雄作はそれだけ将来を期待され、嘱望されていたほど優秀だったとみることができます。
このときから、雄作は編集主幹・滝田樗陰の下で働き始めました。
※滝田樗陰に関してはこちらの記事で詳しく紹介しています。
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雄作が特に関心を持ったのは、女性の権利や生活問題でした。そこで『中央公論』の婦人問題特集を企画して反響を得ます。
雄作は女性向け雑誌の必要性を確信。中央公論の経営側へも働きかけ、やがて実現することとなります。
大正5(1916)年1月、『婦人公論』が創刊。雄作は主幹を務める立場となりました。
主幹は現在でいえば編集長に近い立場です。寄稿者、特集、論調を決める編集の責任者でした。
雄作は女性解放を掲げる論説に、文学と生活記事を組み合わせて好評を獲得。野上弥生子ら女性作家の発表の場を広げました。
ここで雄作は宇野千代とも接点を持っていた可能性があります。
大正11(1922)年5月、宇野千代の『墓を発く』が『中央公論』に掲載。このときの同誌の主幹は滝田でした。
雄作が原稿を読んだ可能性はありますが、採否を決めたり、宇野への連絡や原稿料を算定したと裏づける記録はありません。
しかし面識があった可能性は十分にあり、今後の史料発見が待たれるところですね。
2ページ目 主幹から社長へ雄飛!しかし戦時閉鎖となり、再出発へ


