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【ブラッサム】言論弾圧に屈せず…山中勇三(井浦新)のモデル候補・嶋中雄作『婦人公論』創刊者の生涯

【ブラッサム】言論弾圧に屈せず…山中勇三(井浦新)のモデル候補・嶋中雄作『婦人公論』創刊者の生涯:2ページ目

主幹から社長へ雄飛!しかし戦時閉鎖となり、再出発へ

雄作の転機は思いがけない形で訪れました。

大正14(1925)年10月、滝田が世を去ります。やがて『中央公論』は編集と部数の両面で不安定になりました。

やがて雄作は『中央公論』と『婦人公論』の両誌を率いる立場となります。

昭和3(1928)年7月、両誌の主幹として誌面刷新を断行。同年8月1日、経営を譲り受けて中央公論社社長に就任しました。

社長は編集判断だけでなく、資金調達、印刷、販売、雇用を負う経営責任者です。

昭和4(1929)年に出版部を創設。その第一作としてレマルク著、秦豊吉訳『西部戦線異状なし』を刊行しました。

同書の刊行は成功を収め、雑誌中心だった会社に単行本出版という収益の柱を加えることとなります。

順風満帆に見えた編集者人生ですが、翳りは突然として訪れました。

昭和10(1935)年、中央公論社は創業50周年を迎え、雄作は社史『回顧五十年』をまとめました。

しかし、この頃から言論環境は急速に厳しくなります。

昭和13(1938)年、『中央公論』3月号に掲載された石川達三『生きてゐる兵隊』が発売禁止処分となりました。

処分に伴い、執筆者の石川や編集責任者らは新聞紙法違反で起訴。中央公論社は自由主義的な誌面を維持しながら、内務省と軍部の統制を受ける立場に置かれます。

昭和16(1941)年には太平洋戦争が勃発。日本は戦時体制へと移り変わっていきました。

昭和19(1944)年7月、ついに中央公論社と情報局から廃業を勧告されます。雄作は『中央公論』を休刊を決断。会社を7月31日で解散しました。

形式は自発的廃業でしたが、戦時権力による圧力の結果であったことは言うまでもありません。

終戦後の昭和20(1945)年10月、雄作は再発足の集いを開きます。翌昭和21(1946)年1月には『中央公論』戦後再建第1号を発行して新たな歩みを始めました。

しかし戦中からの苦労は、雄作の身体を蝕んでいたようです。

昭和24(1949)年1月17日、雄作は世を去ります。享年61。新たな社会の息吹を雑誌に吹き込み、出版に人生をかけた生涯でした。

1人の編集者から主幹、社長へ進み、閉鎖された会社を再建し、雑誌の思想と企業の存続を同時に背負った生き様は、今も語り継がれています。

 

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