【豊臣兄弟!】日本人奴隷の売買に激怒?秀吉「伴天連追放令」の理由と、信仰を貫いた高山右近の最期
NHK大河「豊臣兄弟!」第42回『北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)』。
史実でも、天正15年10月1日、京都の北野天満宮の境内とその周辺の松原にて開催された盛大なイベントでした。
この茶会の4ヶ月ほど前の6月19日、秀吉は筑前箱崎で『伴天連(ばてれん)追放令』を発令しています。
そして第42回、秀吉はキリシタン大名・高山右近(市川知宏)を呼び出しました。その目的は……「信仰を捨てよ」。
拒否する右近に秀長(仲野太賀)は「形だけでいいから」と説得するも、上辺だけでも「信仰を捨てるなどできない」ときっぱり断りました。
「キリスト教に寛容」だったと伝わる秀吉が突然出した『伴天連追放令』とはどのようなもので何が理由だったのでしょうか。
そして、秀吉に「領地と地位か信仰か選べ」と迫られた高山右近はどうしたのか探ってみました。
第42回『北野大茶湯』の話題は、こちらの記事でも紹介しています。
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秀吉の国割に表情が曇った右近
それは、第37『秀長の国』でのこと。
天正13年(1586)閏8月、関白となった秀吉(池松壮亮)は四国・北国の平定後、畿内近国の国割を行いました。
勢揃いした家臣たちの前で「高山右近允、摂津高槻に替わり、播磨明石を与える」と読み上げた浅野長政(大地伸永)。
瞬間、右近はすっと目が泳ぎ複雑な表情を浮かべ「ありがたくお受けいたします」と深く頭を下げました。
国割について「皆、したがってくれるかのう」と心配していた秀長右近の表情の変化に気がつき、じっと見つめていたのが怖い。
この分配で、右近の石高は約4万石から6万石へ加増に。
さらに、この先秀吉が視野に入れている九州攻めにとって明石は重要な場所……と考えると、この国割は「秀吉の期待や信頼や評価の証明」とも思えるのですが。
実は、高槻は右近の父・友照の代から築き上げてきた日本有数の『キリシタン領』でした。特に右近が21歳で城主となった後、大きく発展したそうです。
ルイス・フロイス『日本史』によると、
「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」
そんな高槻を離れ、仏教伝来の初期頃から仏教との縁が深い明石に移るのは心中複雑だったのでしょう。
このの場面も、今回の伏線だったような気がします。


