【豊臣兄弟!】日本人奴隷の売買に激怒?秀吉「伴天連追放令」の理由と、信仰を貫いた高山右近の最期:3ページ目
キリシタン大名高山・右近
『豊臣兄弟!』での高山右近は、第21回『風雲!竹田城』から登場。
摂津・有岡城で荒木村重(トータス松本)に対し、播磨攻略を秀吉らに任されたことに「不承知にござりまする」と摂津茨木城主の中川清秀(すがおゆうじ)と共に声をあげました。
第29回『天下への道』では本能寺の変後『山崎の戦い』に再登場。先鋒として活躍する描写があります。
そして今回、右近はロザリオを身に付けた印象的な姿で登場しました。
史実での右近は、天文21年(1552)、摂津高山(現在の大阪府豊能町)を本拠とする国人・高山友照の嫡男として誕生。
父がキリスト教に帰依していたため右近も12歳ごろ洗礼を受け『ジュスト』という洗礼名を授かりました。
これは、ポルトガル語で『正しい人』を意味する名前。
右近は、この名に通りに己の信仰にしたがった生き方を貫くことになりました。
荒木村重への忠誠と信仰の板挟みに悩んだ結果
天正6年(1578)荒木村重は信長に謀反を起こし有岡城に立てこもりました。
右近は高槻城主として村重の重要な与力で、妹や息子などを人質に出して説得を試みるも失敗。
高槻城は戦略上の要衝なため、信長は右近を味方にするべく宣教師を通じで説得をさせます。
「村重を開城降伏させれば布教を許可するが、応じなければキリスト教を弾圧する」と通告された右近。(『信長公記』など)
「村重への忠誠心と家族の命」と「信仰」の板挟みになり悩んだ末、城を出て信長に降伏しました。
その後、明智光秀の与力となるも、本能寺の変から11日後の「山崎の戦い」では光秀につかずに秀吉に属し勝利に貢献します。
右近は数々の戦いで活躍、天正13年(1585)には播磨明石城主6万石の大名となったのです。
信仰を捨てるくらいなら地位も名誉も捨てる
「豊臣兄弟!」でも描かれたように、秀吉はキリシタン大名である高山右近に、信仰を捨てるよう迫ります。
右近は「信仰を捨てるくらいなら領地を返す」と秀吉に伝えたそうです。
「高山右近は、追放にたいして悲しがりもせず、むしろそのことに慰めなり喜びをすら感じたのは、デウスの教えにいささかでも叛くよりは、むしろいかなる危険をも甘受し、現世の財を喪失するをあえてし、死をも賭する固い決意を抱いていたからであった」とフロイスは「日本史」に記しています。「高山右近と日本二十六聖人」 カトリック高槻教会 高山右近顕彰特別委員会
秀吉はすぐに領地を取り上げたのでした。
右近は、肥後宇土城主でキリシタン大名・小西行長にかくまわれ、やがて前田利家に客将として招かれ、加賀で暮らしました。
利家は、右近の武将としての軍事や築城の実力や人柄を高く評価していたそう。「金沢城の改修に、右近が畿内の先進的な築城技術を活かし関与した」という伝承もあります。
前田家で、右近は信仰を続け茶の湯や布教活動も行いました。
茶人としては『利休七哲』(千利休の弟子の中でも優れた茶人)の一人と言われています。


