【豊臣兄弟!】日本人奴隷の売買に激怒?秀吉「伴天連追放令」の理由と、信仰を貫いた高山右近の最期:4ページ目
26人を処刑した「日本二十六聖人の殉教」
追放令のあとも、秀吉は京都の南蛮寺(被昇天の聖母教会)をはじめとする教会施設を破壊・破却。
天正16年(1588)には大村純忠が寄進した「教会領」長崎を没収し、豊臣政権の直轄地にするなど締めつけを強化
慶長元年(1596)、スペインのガレオン船「サン・フェリペ号」が土佐に漂着した際にスペイン側の発言などを耳にした秀吉は「宣教師は征服の先兵」との疑念を強めたそうです。
さらに、京都・大坂のフランシスコ会宣教師や信者らを捕縛。耳を削ぐなどの辱めを加えた上で長崎へ移送し、慶長元年12月19日、西坂の丘で26人を磔刑に処しました。(日本二十六聖人の殉教)
12 歳の少年ルドビコ茨木は、役人が助けたいから信仰を棄てるようにと薦めたが、それを断りました。また、13 歳のアントニオは、テ・デウム(感謝の賛歌)を歌う中を槍で刺され、殉教したのです。「高山右近と日本二十六聖人」 カトリック高槻教会 高山右近顕彰特別委員会
この事件は、秀吉政権下で信仰を理由に最高権力者の命令で処刑が行われた初めての事例とされています。
62歳でマニラにて死す
高山右近は、約26年ほど前田家の客将として加賀で暮らしますが、慶長19年(1614)徳川家康により国外追放になり、家族やほかの追放キリシタンとフィリピンのマニラへ渡りました。
当時スペイン支配下のマニラにおいて、右近は「信仰のためにすべてを捨てた偉大なキリストの騎士」として、スペイン総督や大司教、市民から国賓級の大歓迎を受けたそうです。
そして到着からわずか40日ほどで病に倒れ、翌年2月、63歳で亡くなりました。
高山右近の葬儀は、総督の指示で大名にふさわしい軍式の栄誉を伴う葬儀だったそうです。
高山右近は『信仰のための長い殉教』をしたことが評価され、2017年の列福(※)につながっています。
現在、マニラのプラザ・ディラオなどには、右近の像が立っています。
※列福:徳と聖性が認められ、聖人に次ぐ福者の地位に上げられること。
最後に
ルイス・フロイスの記録などによると、秀吉は「右近という柱を倒せば、他のキリシタン大名たちも弱体化するだろう」と判断したと伝わります。
右近は高槻時代に領民の多くを改宗させ他の大名(黒田官兵衛など)の入信にも影響を与えた人物。
厳しく処したのは、「政治的な見せしめ」の意味もあったと考えられているそうです。
あくまでも信仰を貫き『ジュスト』(正しい人)であることを大切にした高山右近。
右近が縁となり、高槻市とマニラ市は昭和54年(1979年)に姉妹都市として調印。市内のディラオ広場には右近像が建てられたそうです。
第42回『北野大茶湯』の話題は、こちらの記事でも紹介しています。
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参考:
・高山右近と日本二十六聖人」 カトリック高槻教会 高山右近顕彰特別委員会
・「たかつきナビ」高山右近を訪れて
・高山右近(人物叢書 新装版)海老沢有道(著)



