秀吉の朝鮮出兵で李氏朝鮮から強制連行され、千姫に仕えた武士・染木正信【どうする家康 外伝】:2ページ目
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染木正信の子孫たち
●正信 八右衛門
豊臣太閤朝鮮を征伐するの時、片桐市正且元かの國にをいて姉弟二人の小兒をいけどり、日本にをくる。天樹院御方大坂に居たまふのとき、且元より二人を唐土の童子の風俗に粧ひ、臺にのせてまいらす。姉を早尾といふ。弟はすなはち正信なり。ともに身を終るまで天樹院御方につかへ、正信は土圭間の取次役を勤む。
※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
以上、朝鮮から連行されて千姫に仕えた染木正信のエピソードを紹介しました。
その後、嫡男の染木正美も千姫に仕えたそうです。
●正美(まさよし) 利右衛門
天樹院御方につかへ、のち御広敷の添番をつとむ。※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
この正美には子供がいなかったらしく、菊池家より養子をとりました。血統的には、ここで絶えることになります。
●昌常 左内 宇兵衛
實は菊池氏の男、正美が養子となる。
元禄三年十二月十一日遺跡を継、のち表火番御広敷添番等をつとむ。※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
その後も染木家は代を重ねながら、家名を後世へ受け継いでいくのでした。
終わりに
【染木家略系図】
……李某―染木正信―染木正美(まさよし。利右衛門)=染木昌常(左内)=染木美啓(仁十郎)―染木正明(まさあきら)―染木佐太郎……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千五百七 未勘 染木
また、染木の家紋は「丸に四石(よついし)」「鷹羽打違(たかばのぶっちがい)」と伝わっていますが、これらについてもその由来を知りたいですね。
染木正信の他にも、当時は外国出身の武士が多くいたので、彼らについても紹介したいと思います。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第8輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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