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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」ついに始まった最終決戦!第46回放送「大坂の陣」振り返り

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大坂城に結集した牢人・武将たち

家康憎しで大坂城に結集した牢人たち。茶々や秀頼の演説に意気軒昂でしたね。実際の秀頼も、あんな風に陣頭指揮をとっていたらと悔やまれてなりません。

さて、ここではそんな牢人たちの顔ぶれを見ていきましょう。

長宗我部盛親

天正3年(1575年)生~慶長20年(1615年)5月15日没

かつて四国に覇を唱えた長宗我部元親の四男。長宗我部家の第22代当主となります。

関ヶ原の戦いでは西軍に属しますが、吉川広家の足止めにより戦わずして戦線離脱しました。

土佐に帰って家康に謝罪したものの、国許の叛乱(浦戸一揆)を理由に改易されてしまいます。

牢人として不遇であった中、秀頼から土佐一国を与えると持ちかけられ、大坂へ馳せ参じました。

大坂の陣では奮闘むなしく敗北。逃亡するも捕らわれ、処刑されたということです。享年41歳。

後藤又兵衛正親(基次)

永禄3年(1560年)4月10日生~慶長20年(1615年)5月6日没

武勇にひいで、後世「黒田八虎」「黒田二十四将」の一人に称えられた猛将です。黒田官兵衛や仙石秀久など主君を変えながら戦場を渡り歩きました。

再び黒田家へ舞い戻って黒田長政にも仕えますが、いざこざを起こして奉公構(他家に仕官できないよう嫌がらせ)を食らってしまいます。

福島正則や結城秀康、前田利長など各大名から声がかかったものの、どこにも仕官できません。

そんな中で秀頼から召し抱えられ、大坂の陣では大活躍。軍神・摩利支天(まりしてん)の再来とも恐れられる戦いぶりを見せながら、最後は壮絶な討死を遂げるのでした。享年56歳。

毛利吉政(毛利勝永)

天正6年(1578年)生~慶長20年(1615年)5月8日没

劇中では何だか牢人みたいな扱いでしたが、彼は徹頭徹尾豊臣の家臣です。尾張の生まれとも近江の生まれとも言われ、秀吉・秀頼の2代に忠義を尽くしました。

武勇に優れ、朝鮮出兵においても奮戦しています。関ヶ原の合戦では安国寺恵瓊の下に属したものの、混乱の中で大きな武勲は立てられませんでした。

戦後に改易され、身柄を加藤清正・山内一豊に預けられたと言います。出家して一斎と称し、大坂の陣では秀頼のもとへ駆けつけました。

大坂夏の陣では自害する秀頼を介錯(斬首)し、自身も自刃して果てたということです。享年38歳。

3ページ目 明石全登(てるずみ)、大谷吉治

 

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