鎌倉殿の候補から2度も流罪に…雅成親王の波瀾万丈な生涯【鎌倉殿の13人】:2ページ目
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これでようやく安らかな余生を……過ごせるかと思いきや、今度は寛元4年(1246年)。京都で権勢を奮っていた九条道家(くじょう みちいえ。九条兼実の孫で、第4代鎌倉殿・藤原頼経の父)によって六条宮(ろくじょうのみや)に祭り上げられます。
後深草天皇(ごふかくさてんのう。第89代)を廃そうとクーデターを企むも第5代執権・北条時頼(ほうじょう ときより。義時の曾孫)に阻止され、再び但馬国へ送り返されてしまいました(宮騒動)。
なお六条宮については異説もあり、仮に雅成親王が六条宮でなかったとしても関与していたのは間違いないようです。
そして建長7年(1255年)2月10日、但馬国で薨去されました。享年56歳。
終わりに
以上、雅成親王の生涯を駆け足でたどってきました。
鎌倉殿に望まれるも話が立ち消え、承久の乱に敗れて流罪となり、せっかく戻って来たのにクーデターに関与してまた流罪……まさに激動の時代に翻弄された生涯ですね。
歴史にif(もしも)はありませんが、もし後鳥羽上皇が雅成親王を鎌倉に送り出していたら、彼はどんな政治をしたのでしょうか。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では恐らく割愛されてしまうのでしょうが、雅成親王のことも覚えてあげて欲しいです。
※参考文献:
- 鈴木彰ら編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社、2009年3月
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