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【鎌倉殿の13人】源義高は女装し脱出!決死の覚悟で身代わりになった海野幸氏の活躍ぶり

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死を覚悟した幸氏だが……

けっきょく義高は脱出から数日後、入間河原(現:埼玉県狭山市)まで逃げたところで討ち取られてしまいました。その首級は元暦元年(1184年)4月26日に鎌倉へもたらされます。

父や兄らは討死・処刑されてすでに亡く、頼朝を欺いた自分も程なく討たれるのだろうと覚悟していた幸氏ですが、意外なことに罪を赦されました。

「身命を惜しまず、主君を守ろうとした忠義はまことに天晴れである。木曽殿と冠者殿のことは法皇猊下の思し召しゆえ致し方なかったが、これからはどうか鎌倉に力を貸して欲しい」

義仲の怨みを抱いて再起し、源氏の棟梁に成り代わる危険性がある義高さえ討てれば、後の者たちはなるべく活かしたかったのです。

事ここに至って幸氏は頼朝を新たな主君と仰ぎ、同じく赦された望月重隆らともども忠勤に励むのでした。

弓の名手として名を挙げた幸氏は、鶴岡八幡宮の弓始(文治6・1190年)や富士の巻狩(建久4・1193年)で活躍。また建久6年(1195年)に頼朝が上洛した際、住吉大社で行われた流鏑馬には、重隆と共に東国代表として出場しています。

こうした活躍から天下八名手(※)とも弓馬四天王(※)とも称され、頼朝の死後も第2代将軍・源頼家(演:金子大地)、第3代将軍・源実朝(演:柿澤勇人)にも弓射の技量を披露しました。

(※)諸説あり。50音順に愛甲季隆(あいこう すえたか)・海野幸氏・下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)・諏訪盛澄(すわ もりずみ)・榛谷重朝(はんがや しげとも)・藤沢清近・結城朝光(ゆうき ともみつ)・和田義盛。

(※)諸説あり。50音順に海野幸氏・小笠原長清(おがさわら ながきよ)・武田信光(たけだ のぶみつ。武田信義の子)・望月重隆。

また武勇にもすぐれ、建久4年(1193年)に曽我物語の仇討ちがあった時は頼朝の身辺を守り手傷を負っています。

他にも建仁の乱(建仁元・1201年)や和田合戦(建暦3・1213年)、承久の乱(承久3・1221年)にも出陣しました。

没年は不詳、『吾妻鏡』では建長2年(1250年)に海野左衛門入道と言及があるのを最後に、姿を消しています。この時点で78歳ですから、相当な長寿ですね。

終わりに

幸氏の子孫も鎌倉幕府の御家人として活躍し、信濃国から上野国(現:群馬県)にかけて広く栄えました。

戦国時代にも海野氏が登場しますが、その多くが幸氏の子孫。かつて決死の覚悟をもって主君を守った祖先の忠義を誇り、大切に受け継いだことでしょう。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではどんな活躍を魅せてくれるのか、加部亜門さんの好演に注目ですね!

トップ画像: 鎌倉殿の13人 公式ページより

※参考文献:

  • 田中豊茂『信濃中世家伝 信濃武士の家紋と興亡』信濃毎日新聞社、2016年11月
  • 古川貞雄『郷土歴史人物事典 長野』第一法規、1978年10月
 

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