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浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】

浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】:3ページ目

銭屋五兵衛の海外貿易説

 

江戸時代の鎖国体制下、銭屋五兵衛は異国との交易も行ってたという説があります。

五兵衛は蝦夷地を通してロシアと、そして自ら赴いて香港、中国そしてアメリカとも貿易を行っていたと言われています。オーストラリアのタスマニア島には現在は紛失しているものの“五兵衛の土地と記した石碑”があったと言い伝えがあります。

加賀藩は財政が厳しくても藩としての面子を保たなければならない為、五兵衛から献上金を受け取ることで、異国との交易を黙認していたといわれています。

何故、五兵衛が密貿易を行っていたのかというと、加賀藩前田家に出仕していた“本田利明”の思想に影響を受けていた為だと考えられています。

利明の思想の基本は“今や国益の大半は商人のものとなり、そのごく一部を武士や農家が分け合っているような状態である、このように武士や農家が困難困窮する状態は日本開国してから初めてのことであり、今どうにかしなければ、取り返しのつかない状況を招きかねない”というものでした。

そのため、本田利明は欧化主義を唱え、蝦夷地の開発や海外領土の獲得、幕府主導の交易、開国論を説き、特に幕藩体制を超えて“国家”が貿易をはじめとする商業全般を掌るべきとの考えを示していた。

五兵衛はこの本田利明の考えに共感し、海外貿易との必要性を感じていたと思われます。

しかし、この五兵衛の海外との貿易は現在ではあくまでも“一つの説”として考えられています。しかし筆者には五兵衛の海外貿易には、多少の事実があるのではないかと思えてなりません。

なぜなら五兵衛にはそれが出来る財力や環境があり、日本は完璧な鎖国状態を保つことが出来ず、他藩にも海外と取引をしている者もいた訳で、五兵衛にも海外から取引を持ちかけられていた事は容易に想像できます。

加賀藩は常に財政難で、その加賀藩が目をつむれば五兵衛には海外貿易をしない理由はなかったのではないでしょうか。

次回の後編に続きます。

後編の記事はこちらから

 

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