浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】:2ページ目
加賀藩と銭屋五兵衛の結びつき
銭屋五兵衛たち一族が住む加賀藩藩主の前田家は、徳川将軍家との姻戚関係が強く幕府はどこよりも高い御用金を、常に加賀藩に求めた為にその台所事情はいつも火の車でした。
そこで五兵衛の商才は財政逼迫にあえぐ加賀藩の目に止まります。
あるとき藩の勝手方御用掛として実務にあたる“奥村栄実”は、加賀の豪商たちを集め金策を持ち掛けます。しかし皆、口を閉ざしてしまいます。そこで発言すれば、負担しなければならないことが分かっていたからです。
そのとき、五兵衛が4000両近い御用金を調達すると申し入れました。現在の金額にして約4億円です。その度量を奥村栄実に見込まれ、五兵衛は御用商人として御用銀調達の任務につくことになります。
五兵衛の持ち船だった三隻の北前船が藩の御手船とされ、五兵衛は藩の御手船裁許つまり藩が所有する商船の管理人となります。
藩の公認を得ての海運業ですから、さまざまな恩典が与えられ、また加賀藩お抱えという信用もあり、巨利を得たと言われています。
巨万の富を得ても強欲ではなかった銭屋五兵衛
しかし銭屋五兵衛は商売の才能はあっても強欲な人物ではありませんでした。隠居して長男の喜太郎に家督を譲った後も、サツマイモの栽培を広めたり、町奉行に米や銀を寄付するなど困っている人達を助けようと努力しました。
また自身の隠居所を建て替えし、多くの職人や大工を雇うことで失業対策をするなど、結局は隠居といいながら仕事を続けるような人でした。
そして五兵衛は「亀巣」と号して茶の湯や俳諧を嗜む文化人でもありました。長男の喜太郎(千賀の父親)は“霞堤”、次男、三男も俳号を持ち、孫の千賀(ちか子)も共に俳句を詠むことを楽しんでいました。中でも千賀は一番俳句の素養を持つと言われていたのです。