飢饉でもないのに餓死者を続出させた江戸時代の藩主・真田信利の圧制。お家騒動が発端で改易へ…:2ページ目
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命を賭した直訴
そこで立ち上がったのが杉木茂左衛門(すぎき・もざえもん)という領民です。1680年、彼は幕府への直訴を決意しました。それが死罪になることは承知の上でした。
彼は江戸まで出向き直接大老を訪ねましたが、追い払われてしまいます。
そこで一計を案じ、訴状を日光へ持っていくと、箱に入れて茶屋に置き忘れたふりをしていきました。その箱には、三代将軍・家光の墓がある輪王寺という寺の紋が付いていました。
箱を見つけた茶屋の主人は、「これは武家の方のお忘れ物に違いない」と考え幕府へ箱を届け出ます。茂左衛門の狙い通りでした。
こうして訴状が幕府へ届き、信利の圧政が幕府に知れるところとなったのです。
すぐに信利は改易。本人も家族もあちこちの藩で預かりの身となり、沼田城の天守閣も堀も破壊されました。
過大な実高を算定して幕府から請け負った事業に失敗したあげく、直訴という形で藩統治の問題点が公になったことが、改易の理由でした。
ちなみに茂左衛門は、「決まりは決まり」として妻子とともに磔刑に処されました。
しかし、ともあれ沼田の領民は彼のおかげで助かったのです。その功績は今も語り継がれており、地元に伝わる「上毛かるた」の「て」は「天下の義人 茂左衛門」となっています。
「上毛かるた」と言えば群馬県民なら小さい頃からほとんどの人が五十音を全て暗記すると言われているほどのもの。茂左衛門の義侠心は、時代を超えて人々の心に伝わっているのです。
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