討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【大政奉還〜王政復古の大号令編】:2ページ目
密勅は岩倉主導の偽勅だった
しかし、なぜ「討幕の密勅」はいとも簡単に取り消されたのか。それは、勅命とは名ばかりの全くの偽物であったからである。
正式な朝議どころか、明治天皇の許しも得ず、岩倉が主導して薩摩・長州に勝手に与えた偽勅であったのだ。
岩倉の行為は、廷臣という立場からは決して許されるものではなかった。そして、その裏には、目的のためには手段を選ばないという、討幕派の姿勢が見えていた。
維新政府の焦りが王政復古の大号令につながった
新政権の首班の座に。慶喜が描いた青写真
「大政奉還」の前日(10月13日)、徳川慶喜は密かに二条城に幕臣で側近の西周(にしあまね)を呼び寄せた。
西は、オランダに留学、哲学・経済学・国際法を学んで帰国した英才である。明治になってからは、啓蒙思想家としても知られている。
その西に慶喜はイギリスの議員制について諮問した。国王を頂点に頂き、上院・下院からなるイギリスの政治体制こそ、慶喜が「大政奉還」の後に描いた政治プランに他ならなかった。
天皇をトップに、上院には公卿・諸大名、下院には諸藩士たちを選任。自らは上院議長として国家首班に君臨するという青写真を描いていたのだ。
徳川なしで、日本の政治は動くはずがない。山積みなった国内外の問題は、徳川と自分のみが解決できるもの、朝廷や討幕派では無理だ。
しかし、このような徳川慶喜の復権など、薩長両藩ら討幕派にとっては絶対に許容できるものではなかった。
だが、なんら政治的手段を持たない朝廷は、慶喜の将軍職保留とともに、諸侯による衆議、徳川領の安堵を打ち出したのである。
徐々に追い詰められていく薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、そして岩倉具視ら討幕派の面々は、懸命に現状打開の策謀をめぐらした。
それが、12月9日に発せられた「王政復古のクーデター」、世にいう「王政復古の大号令」であったのだ。