明治時代の報道被害?「伊勢神宮不敬事件」で暗殺された森有礼のエピソード:2ページ目
森は犯人だったのか?そもそも事件はあったのか?
そして明治22年(1887年)2月11日、森有礼は国粋主義者の西野文太郎(にしの ぶんたろう。当時25歳)によって暗殺されます。出刃包丁による刺突で出血多量の森は翌日に死亡、西野はその場で護衛に斬殺されました。
西野は報道当時、伊勢神宮造営掛を務めており、みんなで整備した境内を穢す振る舞いに対して人一倍怒りを感じていたことが犯行に踏み切った動機と見られますが、少なくない日本人が大っぴらには言えないものの喝采を送った(※)そうです。
(※)その後の報道によれば、西野家へ無名の香典を贈る者や、文太郎のプロフィールをまとめた読み物を販売し、資金を貯めて文太郎を祀ろうとした者などが現れたと言います。
暗殺当日に所持していた斬奸状(ざんかんじょう。悪人を討つ理由書)では、森が
「天皇陛下を奉戴する我が日本国の基礎を破壊し、亡滅へ陥れようとした(大意)」
と糾弾しており、その危機感は少なからぬ日本人が共有していたのでした。
ただし、森の秘書官を務めていた木場貞長(こば さだたけ)はそもそも報道自体を「事実無根」としており、本当に森が伊勢の神宮に対して不敬をはたらいたのかは未だ謎のままとなっています。
確かに森有礼ならやりかねませんし、仮に筆者も当時生きていれば「事件が事実なら、恐らく犯人はアイツだろうな」と思ったでしょうが、事実関係をハッキリ確認しない限り、疑いだけで人を罰したり、まして殺したりするのは近代法の精神に反する蛮行と言わざるを得ません。
同時に、事実無根の情報であっても人々を扇動してしまう影響力を持っていることをメディアは強く自覚し、より公平・公正な報道をもって社会に資することを願うばかりです。
※参考文献:
木村力雄『異文化遍歴者 森有礼』福村出版、1986年12月
岡田常三郎 編『刺客西野文太郎の傳』書籍行商社、1887年3月
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』小学館、2014年1月