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領地を没収され、横暴な新領主に抵抗した戦国武将・君ヶ袋兼継の挙兵

領地を没収され、横暴な新領主に抵抗した戦国武将・君ヶ袋兼継の挙兵

領地を没収され、新領主の横暴に耐えかねて挙兵

さて、そんな君ヶ袋家は戦国時代末期の天正18年(1590年)、天下人となった豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)によって領地を没収(改易)されてしまいます。

その理由は「小田原の北条(ほうじょう)攻めに参加しなかったから」というものですが、兼継の主君・大崎氏はかねてより伊達(だて)氏に従属していたため、秀吉に味方したくても、独自に軍勢を出せなかったのです。

伊達政宗(まさむね)は小田原の北条氏と連携して秀吉の隙を窺っている内に機を逸してしまい、勝ち目なしと判断して秀吉に謝罪。命がけのパフォーマンスで政宗は(それなりの処分を受けつつも)許されましたが、大崎氏らはトカゲの尻尾切りに遭った形となります。

とんだ野心のとばっちりを受けた君ヶ袋家は、新領主として赴任してきた木村伊勢守吉清(きむら いせのかみよしきよ)らを迎え入れざるを得ませんでした。

「……今は堪えよ、堪えるのじゃ……」

忍従に徹した兼継でしたが、赴任してきた木村家はさっそく領民に対して重税を取り立て、大崎家の旧臣を取り立てることなく刀狩りを実施。これは「お前らを武士として認めない」という侮辱に外なりません。

加えて俄かに取り立てられた、どこの馬の骨とも分からぬ者どもが大量に流れ込んで各地で乱暴狼藉を繰り返し、領内は見る見るうちに荒廃していきました。

「最早堪忍ならぬ……かくなる上は、城を枕に討死するまで!」

「「「おおぅ……っ!」」」

君ヶ袋家のみならず、大崎・葛西(かさい)氏の旧臣らが一斉蜂起。後世に言う「葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)」の火蓋が切って落とされたのでした。

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