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大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯:3ページ目

戊辰戦争では彰義隊に参加するも……

さて、焼き討ち計画を断念しても尊皇攘夷の志やまず、京都へ飛び出していった栄一たちとは別行動をとり、地元を守りながら時機をうかがっていた新五郎ですが、慶応4年(1868年)ついに討幕の火蓋が切って落とされました。

世に言う戊辰(ぼしん)戦争に際しては、京都から逃れて来た将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を警護するために結成された彰義隊(しょうぎたい)に参加。

そこには、栄一と行動を共にしていた渋沢喜作(きさく。栄一の従兄)が頭取を務め、栄一の養子として江戸で暮らしていた平九郎の姿もあります。

「喜作お前、尊皇攘夷の志で京都へ行ったら、倒すべき幕府将軍の警護とはどういうことだ!?」

「事情が変わったのだ。もはや公武(朝廷と幕府)が力を合わせずして、日本の国難は乗り切れぬ。そのためにも、今は君側の奸(※)より将軍家をお護りせねばならぬ!」

「うーむ……腑に落ちぬが、左様な事情であれば……」

(※)君側の奸(くんそくのかん:主君の側近く仕え、道理を誤らせる奸臣。ここでは朝廷の権威を濫用し、幕府を滅ぼして権力の掌握を目論む薩長藩閥を指す)

やむなく彰義隊に列した新五郎でしたが、4月に徳川慶喜が江戸の無血開城を決断。謹慎するため江戸から水戸へと退去しました。

これで無益な戦いは避けられる……そう胸をなで下ろした一同でしたが、喜作に次いで彰義隊の副頭取であった幕臣・天野八郎(あまの はちろう)が徹底抗戦を主張

「薩長の連中は幕府を滅ぼすつもりだ!今はよくても、ここで戦わねば遠からず追い詰められてしまうぞ!」

結果的にはその通りとなったのですが、喜作は無血開城の上意に逆らっての抗戦をよしとせず、彰義隊を離脱。新五郎たちも袂を別ったのでした。

4ページ目 飯能戦争、平九郎の死

 

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