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大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯:2ページ目

横浜焼き討ち計画を発案するが……

さて、新五郎が34歳となった文久3年(1863年)、世の中に尊皇攘夷・討幕の機運が高まると、栄一たちと横浜にある外国人居留地の焼き討ちを計画します。

「上野国の高崎城(現:群馬県高崎市)を襲撃して武器を奪ってから横浜の外国人居留地を焼き討ちし、それから長州(現:山口県)の毛利家と連携して、欧米列強に対して弱腰な幕府を倒そう!

……言っていることは勇ましいですが、ちょっと考えるといささか荒唐無稽に過ぎる気がしなくもありません。

まず、新五郎と栄一たちがいる榛沢郡(現:埼玉県深谷市)から高崎城(現:群馬県高崎市)まで、北西へおよそ30キロ(直線距離)。そこから南東方向へとって返し、横浜までおよそ130キロ(同)。

高崎城がどれだけ隙だらけだったのか(あるいは内通者でもいたのか)はともかく、仮に高崎城を乗っ取り、武器が奪えたところで、そこから徳川幕府のお膝元である江戸を通過(あるいは大きく迂回)して横浜へ向かうまで、何の障害もない(あるいはそれを乗り切れる)とは到底思えません。

「いくら何でも無謀すぎます!」

弟の尾高長七郎(ちょうしちろう)が猛反対したことにより、横浜焼き討ち計画は中止になるのですが、新五郎ともあろう者が計画の無謀さに気づかなかったとは思い難いですが、もしかしたら、

かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 大和魂(やまとだましい)
※吉田松陰(よしだ しょういん。長州志士、安政の大獄にて刑死)

【意訳】こうすればこうなる…そんな結果≒失敗は百も承知だが、それでも日本の行く末を思えば、行動せずにはいられないのだ!

……という精神に基づいてのことだったのかも知れませんね。

3ページ目 戊辰戦争では彰義隊に参加するも……

 

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