手洗いをしっかりしよう!Japaaan

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯:4ページ目

飯能戦争、平九郎の死

「しかし、彰義隊や他の幕臣たちが官軍に抵抗すれば、上様に危険が及ぶやも知れぬ。いざとなったらお護りできるよう、やはり軍勢を揃えておくべきだ」

そこで新五郎は喜作や平九郎らと共に振武隊(しんぶたい)を結成。上野戦争(5月15日)に敗れた彰義隊の残党も受け入れておよそ1,500名に膨れ上がった5月18日、武蔵国高麗郡飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺に布陣します。

しかし、官軍がこれを見逃すはずもなく、5月23日に3,500名の軍勢で能仁寺を攻撃。後世に言う飯能戦争の始まりです。

「ぐわっ、撃たれた!」

「喜作、しっかりせぇ!傷は浅いぞ!」

「兄上、後方から敵襲!」

戦闘は半日ほどで終了、新五郎は銃撃で負傷した喜作を抱えて伊香保(現:群馬県渋川市)まで逃げ延びましたが、平九郎は逃げきることが叶わず、切腹して若い命(享年22歳)を散らしたのでした。

「養父上(栄一)……」

平九郎が遠く仰いだ空の向こう、栄一はそのころ、先進技術を日本に採り入れるべくフランス・パリ万国博覧会の視察をはじめ、ヨーロッパ諸国を歴訪していました。

大政奉還(たいせいほうかん。幕府が政権を朝廷に返還)によって帰国を命じられ、明治元年(1868年。慶応4年9月8日に慶応から改元)11月3日、かつて自分が焼き払おうとしていた横浜港に帰国します。

「そうか、平九郎が……」

亡くした養子を悼む暇もなく、栄一にはヨーロッパ諸国で学んだことを活かし、新たな日本を創り上げていく使命が待っているのでした。

エピローグ・明治日本の発展に尽力

新五郎と喜作はその後も北へ北へと転戦し、最後は箱館(現:北海道函館市)で旧幕府軍(蝦夷共和国、蝦夷政権)が全面降伏するまで抵抗を続けました。

「もはやこれまでか……」

日本の前途を絶望した二人でしたが、大蔵省の官僚となっていた栄一の伝手によって、今度は明治日本の発展に力を尽くすこととなります。

その後、新五郎は富岡製糸場(とみおかせいしじょう。現:群馬県富岡市)の経営や養蚕・製藍の研究に励み、第一国立銀行の支配人(盛岡支店、仙台支店)などを歴任。明治34年(1901年)1月2日、満70歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

尊皇攘夷の志に燃えて激動の幕末を駆け抜け、維新なった明治日本の発展に尽力した尾高惇忠。これから大河ドラマではどのような活躍を魅せるのか、好演が楽しみですね!

※参考文献:
山崎有信『彰義隊戦史』隆文館、1904年3月
加来耕三『真説 上野彰義隊』中央公論社中公文庫、1998年12月
菊地明『上野彰義隊と箱館戦争史』新人物往来社、2010年12月
歴史群像シリーズ特別編集『【決定版】図説 幕末 戊辰 西南戦争』学研プラス、2006年7月

 

RELATED 関連する記事