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関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【前編】

関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【前編】

次男・石田重成

長男重家と同様、皎月院の子供である。生年月日は不明。1588年説が有力だが定かではない。1599年には豊臣秀吉の跡取りである秀頼に小姓として仕えた。

関ヶ原で西軍が敗れると大阪城にいた重成は、同じく秀頼に小姓として仕えていた「津軽信建」の助力により陸奥国・津軽へ逃れた。津軽家は領土問題で他家と対立していた際に秀吉の征伐対象にされかけたが、石田三成のとりなしによって滅亡の危機を免れた経緯があった。

その後、重成は「杉山源吾」と名を変えて、弘前藩・津軽家の援助の元に生活した。長男の吉成は弘前藩主・津軽信枚(信建の弟)の娘と結婚し、家老となって子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。

死没に関しては1610年に若死したという説と1641年に死去したという説が有力だが、わかっていない。

【後編へ続く】

 

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