「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉知ってる?鈴木春信の浮世絵に見る江戸時代の梅の花:3ページ目
江戸時代の梅事情
梅は、新元号の“令和”の典拠である日本最古の和歌集“万葉集”の梅花の歌の序文にもあるように、古くから日本人に親しまれてきたことが分かりますが、元は中国から日本に伝来した樹木であり、“春告草”とも呼ばれました。ちなみに旧暦の2月は“梅見月”とも呼ばれます。
桜は元は山桜という日本原産の樹木ですが、梅はもともと日本にはなかったものなので、庭や庭園などに植えて愛でられることが多い花木でした。
江戸時代の冬は今よりとても寒く、小氷河期に入っていたとも言われています。江戸中期以降は隅田川が三度も凍りつきました。江戸の人々はとても寒い冬を過ごしていました。早く春が来てほしいという思いは切実であったと思います。
江戸の“梅の盛り”の時期は現代とは比べ物にならないくらい、梅は切り花や盆栽・庭木として愛でられ、人々は「梅見」に繰り出しました。多くの花梅の品種は江戸時代に作られたと言われています。
江戸の梅は通人が好むとされ、梅の名所としては、亀戸の梅屋敷や新梅屋敷(向島百花園)、蒲田の梅屋敷などが有名でした。特に「江戸名所花暦」には、亀戸の梅屋敷の〈臥竜梅〉こそが絶品と書かれています。
上掲の浮世絵ですが立て札に“臥龍梅”書いてあるように、ここは亀戸の梅屋敷内でしょう。その臥龍梅の前で、煙草入れから煙管に刻み煙草を詰めて女性の方から、まだ頭を剃っている少年とも言えるような男性に煙草の火をもらっている場面です。
男性のそばには小僧さんがいて、旦那さんの履き替え用の下駄を持っています。そのような小僧さんを連れ歩くとは相当のお金持ちです。
ただこの女性、振袖は当時少女と言える年頃の娘が着るものでした。それが煙草を吸うとは、しかも男性からのもらい火とは遊女でしょうか。しかし浮世絵はただ事実を描くものではありませんので、そこをつついても意味はないかも知れません。
しかしこのように煙管や煙草のもらい火から、人間同士の会話が始まり、気が合えば恋に落ちたりするという、「梅見」も一つの出会いの場であったのでしょう。
また、少年の袖に描かれている源氏香は「花の宴」という名前がついています。このことからも「梅見」が人々の大切な行事であったことが分かります。
さいごに
先程の季語としての「探梅」という言葉は冬の季語ですが、「梅」や「梅見」は春の季語です。同じ“梅”という言葉が入っている季語でも、その行動の内容で季語の季節が変わるほど、日本人は季節のうつろいに敏感だったのです。
梅は鈴木春信以外の浮世絵作者にも沢山描かれた題材です。浮世絵は人々が好むものを描きますから、それだけ人々に愛されたということでしょう。
筆者が常々訪ねたいと思っている長浜盆梅展など、滅多に観られない「梅見」もあります。皆さんも着物など着て、今年は梅を見にいきませんか。
でもくれぐれも梅を枝を切るなどということはしないで下さいね。