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日本で「手配写真」を普及させた江藤新平は、皮肉にも手配写真の制度によって逮捕

日本で「手配写真」を普及させた江藤新平は、皮肉にも手配写真の制度によって逮捕

28歳のときに脱藩すると、京都で活動、桂小五郎や伊藤博文など明治初期に活躍した人物らと交流を持つようになります。当時の「脱藩」は重罪で、江藤も捕まり、一度は佐賀に連れ戻されてしまいます。通常なら死刑にあるところを藩主・鍋島直正(なべしま なおまさ)によって無期限謹慎に減刑されました。

江藤が33歳になると、政権が朝廷に返上される「大政奉還」がおこなわれ、これを機に謹慎が解除され、佐賀藩でいよいよ政治の世界にデビューしました。

それからの江藤は「法律こそ近代国家の根底」と考え、法律と司法制度の整備に尽力します。

1872年、39歳のときに初代・司法卿(しほうきょう)に就任。その後は「人民の権利を保護する」をキャッチフレーズに司法制度の土台を確立、日本の法律と司法制度を整備し、警察の近代化に貢献しました。

江藤の行った様々な改革の一つが、江戸時代の「人相書き」を「手配写真」に代えたこと。罪を犯した罪人が、逃亡してもすぐに見つかるようにあらかじめ写真を撮っておくようにしたのです。

3ページ目 自らが確立した手配写真によって逮捕、処刑

 

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