日本で「手配写真」を普及させた江藤新平は、皮肉にも手配写真の制度によって逮捕:3ページ目
ところが、征韓論を巡る意見の対立から、職を辞めて故郷の佐賀へ戻ってしまいます。そして、1874(明治7)年、後に「佐賀の乱」と呼ばれる反乱を起こしますが敗北してしまいます。
追い込まれた江藤は、逃亡を図ろうとしますが、皮肉にも自分の作った手配写真の制度によって最初に逮捕されることになりました。
江藤のその後ですが、逮捕されたその日のうちに、ろくな審議もなく突然死刑が言い渡されて処刑されてしまいました。「法の番人」になることを目指した江藤は、その法に守られることなく41歳でその生涯を閉じたのでした。
なんて皮肉な生涯だったのでしょうか。現在、彼の墓は、故郷である佐賀県の本行寺というお寺にあります。
参考:『江藤新平―急進的改革者の悲劇』(毛利敏彦 中公新書 1987)