戦国時代の始まりは応仁の乱ではない!?「関東の三十年戦争」享徳の乱とは【後編】
戦乱へ突入する関東地方
【前編】では、鎌倉公方の足利家と、その部下にあたる関東管領の上杉家が、仇討ち合戦を起こしたことで享徳の乱が始まるまでの経緯を説明しました。
戦国時代の始まりは応仁の乱ではない!?「関東の三十年戦争」享徳の乱とは【前編】
さて、鎌倉公方・足利成氏によって関東管領・上杉憲忠が暗殺されたところまで【前編】で見てきましたが、1455年、新しい関東管領となった上杉房顕とその従妹の房定の二人は、憲忠の敵を討つために挙兵します。
戦乱が始まり、室町幕府は上杉方を支援しようとしますが、もたついている間に足利は上杉軍が立てこもる城を落城。さらに転戦して下総の古河城に入りましたが、ここで隙ができてしまい、手薄になっていた本拠地の鎌倉を上杉に占拠されてしまいます。
仕方なく足利方は古河城を拠点をすることになり、成氏は「鎌倉公方」ではなく「古河公方」と呼ばれるようになりました。
当時の将軍である足利義政も、1457年に足利成氏から鎌倉公方の役職を剥奪。そのかわり、新たな鎌倉公方として、兄である足利政知を擁立しました。
ところが、だんだん話が複雑になっていきます。
古河公方VS堀越公方
幕府は、新しい鎌倉公方として足利政知を立てたのはいいものの、戦争では手を組んでいたはずの上杉家や、関東の武士たちからは支持を得られませんでした。
しかも、幕府による足利成氏の討伐もうまくいきません。
結局、新・鎌倉公方であるはずの政知は鎌倉までたどり着けず、伊豆国の堀越にとどまらざるを得ませんでした。こうして、政知は「堀越公方」と呼ばれるようになります。
もともと、関東地方は都から離れているため、もともと幕府の支配力が及びにくいところがありました。だからこその鎌倉公方・関東管領だったのですが、こうしたまとめ役が不在となったため関東地方は無法地帯のようになってしまいます。
そして、領地拡大を目指して分家が本家を乗っ取る騒動などが発生するようになりました。
当時は利根川を挟んで東側が旧来の鎌倉幕府以前からの勢力が多く、西側は小さな領主たちが連合する地域でした。
よって、独立志向の強い東側は古河公方に、反対に幕府に属することを望む西側は堀越公方に就くという図式になりました。