幕末時代、カネ目当てで浪士組に入った「偽志士」コンビの末路とは?:2ページ目
浪士組にゴロツキ二人
時は幕末・文久三1863年2月、第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)の上洛に随行してその身辺警護や不逞浪士の取り締まりを目的とする「浪士組(ろうしぐみ)」が結成されましたが、身分の貴賤や行状などを問わず募集したため、メンバーの中には必ずしも志の高いばかりではなく、食い詰め者や兇状持ちなど「むしろこいつらが『取り締まられるべき』側ではなかろうか」という者も少なからずいたようです。
※実は、浪士組は「江戸を騒がす破落戸(ゴロツキ)どもを体よく一掃する」という裏の目的があったのでは、という説もうなずけます。
その中に雑じっていたのが今回の主人公である神戸六郎(こうべ ろくろう)と岡田周造(おかだ しゅうぞう)。その生い立ちや浪士組に参加する前の経歴は不詳ですが、その後の行状から察するところ、まっとうに働いて暮らしを立てていたとは考えにくく、江戸近辺でぶらぶらとその日暮らしをしていたのでしょう。
そこへ浪士組の話が舞い込み、報酬目当てで参加したまではよいものの、いざ京都に着いてみると、浪士組の発起人である清河八郎(きよかわ はちろう)が、何やら不穏なことをのたまいます。
「これから諸君らには、尊王攘夷の魁(さきがけ)として江戸に向かってもらう」
それを聞いた浪士たちの動揺は想像に難くありませんが、「だったら最初から江戸に居りゃあよかったじゃないか!」……六郎も周造も、多分そう憤ったことでしょう。これではとんだ骨折り損です。
しかし、清河にしてみれば将軍警護という大義名分と、わざわざ上洛して見せるというパフォーマンスがなければ、幕府から軍資金を騙し盗れないと考えたのかも知れません。
この決定に不服を唱え、京都に残留した近藤勇(こんどう いさみ)や芹沢鴨(せりざわ かも)らが後に新選組(しんせんぐみ)を結成、大活躍するのは有名ですが、ともあれ話は六郎と周造。