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槍一本で伊勢守!幕末三舟の一人・高橋泥舟のまっすぐな生き方が美しい!

槍一本で伊勢守!幕末三舟の一人・高橋泥舟のまっすぐな生き方が美しい!

高橋泥舟ってどんな人?ざっくり三行で紹介

とりあえず、高橋泥舟についてざっくり知りたい方向けにざっくり三行で彼のプロフィールをまとめてみました。

一、 山岡鉄舟の義兄。
一、 槍術の達人。
一、 徳川慶喜の側近として活躍。

お急ぎの方はこれだけ知っておけば十分かも知れませんが、少しでも興味の湧いた方は、もう少しおつき合い頂ければと思います。

高橋泥舟のプロフィール

高橋泥舟は江戸末期の天保六1835年2月17日、旗本・山岡正業(やまおか まさなり)の次男として江戸で生まれました。

その幼名は謙三郎(けんざぶろう)、後に精一郎(せいいちろう)、元服してからは政晃(まさあき)と改名(※泥舟は晩年になって称した号ですが、ここでは便宜上「泥舟」で統一します)。

生家の山岡家は自得院流(忍心流)槍術の名門で、兄・山岡静山(やまおか せいざん)に師事して厳しい修行に打ち込み、やがて海内無双(※1)の腕前と称せられるまでに成長しました。

(※1)かいだいむそう。四方の海すなわち天下に並びなき者や事物を表わす。天下無双に同じ。

やがて母方の実家である高橋家を継ぐために高橋包承(たかはし かねつぐ)に養子入りしますが、兄・静山が27歳の若さで早世すると、山岡家には男性がいなくなってしまいました。

今さら泥舟が出戻る訳にもいかないため、門人の小野鉄太郎(おの てつたろう)に妹の英子を娶らせて山岡家の養子に迎えます。この鉄太郎こそが後の山岡鉄舟であり、かくして二人は義兄弟となったのでした。

3ページ目 槍一本で伊勢守!その不器用で直向きな忠節

槍一本で伊勢守!その不器用で直向きな忠節

さて、海内無双の槍術を見込まれた泥舟は幕府の武芸訓練所である講武所の槍術指導や、清河八郎の策謀によって解体された浪士組を新徴組(しんちょうぐみ)に再編、その取締役を務めるなど、暗雲立ちこめる幕末期において重要な役割を果たします。

そんな実直な働きぶりが一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ。後の徳川慶喜)の目に留まり、その側近として文久三1863年の慶喜上洛に随行。従五位下伊勢守(じゅごいげ いせのかみ)に叙任されます。

この時のことを、後に勝海舟は「(泥舟は)物凄い修行を積んで、槍一本で伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」などと評していますが、平素から地道に直向きに槍術の修行に打ち込み続けることこそがご奉公の道と信じた、泥舟の不器用な誠実さが偲ばれます。

その後、慶応二1866年に幕府の警護部隊である遊撃隊が組織されると剣客として高名な榊原健吉(さかきばらけんきち)らと共に頭取を務め、倒幕の機運に備えますが、いざ慶応四1868年の戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)に敗れてからは慶喜に官軍への恭順を説得。

そして降伏後、官軍の総大将たる西郷隆盛(さいごう たかもり)との交渉の使者に推薦されたものの、慶喜はこれに反対。

「いっときでもそなたが居なくなれば、誰が余を守り、将兵らを統御するのか」

よほど慶喜から頼りにされていたことがうかがわれますが、それなら我が義弟を、ということで山岡鉄舟を推薦し、勝海舟も加わって江戸城の無血開城が実現したのでした。

3ページ目 幕府滅亡後・その晩年

 

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