平安時代には既に原型が。ドラマ「わろてんか」で注目、漫才の歴史 [中世~近世編]
NHKの朝の連続テレビ小説『わろてんか』は、吉本興業の創設者の一人・吉本せいをモチーフとして、女性興行師の人生を描いています。ドラマでは「しゃべくり漫才」の誕生と発展が描かれ、漫才の先祖である「万歳(まんざい)」も登場しました。ドラマ自体はフィクションですが、2つの「まんざい」の違いや歴史に興味を持たれた方も多いのではないでしょうか。
実はとっても深い、漫才の歴史をご紹介します。
公家、武士、民衆…あらゆる階層に愛された祝福の芸
「漫才」の表記が生まれた年はほぼ確定しています。昭和8年に吉本興業が名付け、翌9年に新橋演舞場で開催された「特選漫才大会」から広く使われるようになりました。
そして、それ以前に「万歳」と表記される芸能がありました。時に「万才」「萬歳」とも表記されますが、いずれも歴史を遡ると中世から存在した「千秋万歳」にたどり着きます。平安中期には京都で演じられていたとされる千秋万歳は、正月を彩る祝福芸の一つです。後に千秋がとれて万歳と呼ばれるようになりました。
ひとくちに万歳といっても様々な形式がありますが、基本は「太夫」と「才蔵」の2人組の芸です。2人は年始に家々を訪れ、玄関先で芸を披露します。つまり万歳は「門付け芸」でもありました。
太夫と才蔵は、七福神などおめでたい言葉を節にのせて歌唱します。これは「今年一年、悪いことが起きませんように」と神に祈る行為でした。これが祝福芸です。「予め良いことが起きたことにして祝っておく」という意味で、予祝芸とも呼ばれます。
万歳は神事の一種とされていますが、堅苦しいものではありません。鼓を持ち面白いことを言う才蔵を、扇子を持った太夫がたしなめる。そんな2人の掛け合いで笑わせます。つまり才蔵がボケで太夫がツッコミ。すでにここに漫才の原型がありました。
明るく楽しく正月を盛り上げる万歳コンビは、正月の風物詩でした。室町時代には、なんと公家の邸宅や禁裏にまで参上しています。やんごとなき人々の前で万歳を披露したのです。公家の日記などに、その記録がしっかり残っていました。
京都で盛んだった万歳が、戦国時代の終わり頃から全国に広まるようになります。尾張、三河、伊勢、伊予、加賀、越前。さらに東北の会津、仙台、秋田、盛岡まで。それぞれが各地で独自の進化を遂げていきます。
江戸時代に入っても万歳の人気は衰えず、お江戸の正月に欠かせないものになりました。これらの多くは、三河や尾張から出張してきた万歳師によって演じられたものです。徳川家と繋がりが深い三河万歳は、大名屋敷にも参上しました。三河に限らず、大名や武家に可愛がられた万歳師もいたようです。