「べらぼう」そうきたか!老舗ができないことをやる−−挑戦とアイデアの宝庫・蔦重の底力【後編】:3ページ目
「俺ゃ歌にやってほしかったけどね」で決意する蔦重
ところが、それに続いた重政の言葉は非常に印象的でした。
「俺ゃ歌にやってほしかったけどね」。
「俺ゃ駆け出しの奴の絵は山ほど見てきたから、そいつらが落ち着く先の画風も大体は読めんだよ。けど、歌はからきし読めねえんだ。そうなると見たくなんじゃない?
あいつが、人真似の絵をやめたらどういう絵を描くのかって」と言います。
さりげない場面でしたが、「さすがは、北尾重政!お目が高い」と思った人も少なくないのでは。筆者は、生涯でさまざまな弟子を輩出し若手の育成に熱心だった重政らしい「目利き」の言葉だなと、思った場面でした。
北尾重政は、遊女らを花に見立てた『一目千本』を作るときに、蔦重が絵を依頼した絵師です。その後も、『青楼美人合姿鏡』でも絵を描いていますし、蔦重が耕書堂の経営基盤を築いた『往来物』(子供の教科書のような本)も、書も得意とした重政が作ったのではないかという説もあります。
出会った頃、蔦重は開け出しの出版人でしたが、重政はすでに絵師として人気も実績もありました。
史実では、重政は本屋・須原屋三郎兵衛の長男として生まれ、本に囲まれて育ち、絵や書、俳諧において才を育むこととなった人。蔦重の本作りへの情熱に共感し、蔦重のいいパートナーとしてその成長過程に関わりたかったのかもしれません。
そんな重政の「俺ゃ歌にやってほしかったけどね」は、蔦重の心にもズシリと響いたのでしょう。
重政を見送った後、早速耕書堂に戻り、歌麿に「お前の名前をどんどん売ろう!」
と熱く熱く語ります。
歌麿は「絵のこと(自分が錦絵本の絵師から外されたこと)なら何とも思っていない」と言います。「屋根があって飯食えて絵を描けて蔦重と暮らせればいい」とも。
歌麿は、鬼のような母親に虐待され、まだ7歳なのに男相手に体を売らされ、搾取されてきた壮絶な過去の持ち主です。そして、江戸の大火事で家の下敷きになった母親を見捨てて逃げた罪の意識から、男女かまわずに体を売り、贋作作りで死んだように生きてた状態でした。そこから抜け出させてくれたのが蔦重です。
昔から兄のように慕っていた蔦重と一緒に、耕書堂の一員として暮らしている今の生活は、まさに夢のような毎日でしょう。
けれども、少年時代からずっと歌麿の才能を知り、有名な絵師にするのは蔦重の夢。まさに、そのチャンスが目の前に近づいてきたのに諦めるはずがありません。
