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田沼意知(宮沢氷魚)に家系図を渡した佐野政言(矢本悠馬)とは何者?その家系図をたどる【大河べらぼう】

田沼意知(宮沢氷魚)に家系図を渡した佐野政言(矢本悠馬)とは何者?その家系図をたどる【大河べらぼう】

◆佐野政言/矢本悠馬
さの・まさこと/やもと・ゆうま
反田沼の“世直し大明神”

佐野家は三河以来、徳川家に仕えた歴史があり、代々番士を務めた家柄。江戸城内で若年寄の田沼意知(宮沢氷魚)に切りつけ、重傷を負わせ絶命させた。幕府は「私憤からの乱心」として切腹を命じるが、庶民からはこれを「世直し大明神」と称えられることになる。

※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

第6回放送「鱗(うろこ)剥がれた『節用集』」で、田沼意知に家系図を贈呈した佐野政言。

意知から家系図を受け取った田沼意次(渡辺謙)は「出自などにこだわるな」と言い放ち、せっかくの家系図を池に捨ててしまいました。

足軽身分から立身出世した意次は、家柄コンプレックスを乗り越えようとしていたのでしょう。しかしこのことが後に大事件を惹き起こすことになります。

今回は江戸後期の系図集『寛政重修諸家譜』より、佐野政言の祖先をたどってみました。

佐野家略系図

……佐野正安(與八郎)-佐野正吉(與八郎)-佐野正長(與八郎)-【別家】佐野政之(五兵衛)-佐野政朝(傳右衛門)=佐野政矩(善左衛門)-佐野政武(傳右衛門)-佐野政豊(傳右衛門)-佐野政言(断絶)

※『寛政重脩諸家譜』巻第八百五十二 藤原氏(秀郷流)佐野

佐野家は藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)の後裔を称しており、たどれる限りの初代・佐野正安から代々徳川家(松平家)に仕えてきました。

代々の佐野家当主について、たどっていきましょう。

初代から政言の父まで

  • 初代・佐野正安(まさやす)
    生没年不詳。松平清康(家康祖父)に仕え、三河国大幡を領す。御油縄手の合戦に武功。
  • 2代目・佐野正吉(まさよし)
    大永元年(1521年)生~元和7年(1621年)5月2日没。松平広忠(家康父)・徳川家康・徳川秀忠に歴仕。
  • 3代目・佐野正長(まさなが)
    永禄7年(1564年)生~寛永3年(1626年)5月16日没。家康に仕え、千姫の家老に。
  • 4代目・佐野政之(まさゆき)
    生年不詳~正保2年(1645年)2月28日没。徳川秀忠に仕え、御小姓組を務める。
  • 5代目・佐野政朝(まさとも)
    生年不詳~寛文12年(年)3月17日没。小普請、大番を務める。
  • 6代目・佐野政矩(まさのり)
    生年不詳~正徳元年(1711年)7月28日没。実父は佐野政宣(政之の兄)。従弟である政朝に養子入りする。
  • 7代目・佐野政武(まさたけ)
    天和元年(1681年)生~寛延元年(1748年)1月29日没。徳川綱吉に仕え、御小姓組を務める。
  • 8代目・佐野政豊:正徳3年(1713年)生~天明7年(1787年)5月27日没。徳川家重に仕え、大番・新番を務める。

こうしてみると、代々徳川家に仕えてきたことが分かります。そして9代目が佐野政言でした。

2ページ目 佐野政言『寛政重修諸家譜』に曰く

 

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