なぜ「白い餅を焼く」と縁起が悪いのか?戦国武将たちはどんなお正月を過ごしてた?【後編】
激しく勇猛果敢な活躍ぶりや悲劇的でドラマティックなストーリーが注目される戦国武将たち。
けれども、もちろん彼らも人間なので1年中戦いばかりしているわけではなく、普段は普通に生活していました。
【前編】では、織田信長が茶の湯を通し全国を支配下に置くための布石として、意図的に新年は酒宴ではなく「茶会」を催したというエピソードや、信長が激昂しあわや正月の宴が台無しになるところを秀吉の機転が効いた一言で難を逃れたという正月エピソードをご紹介しました。
織田信長のお正月のひと時がこちら!戦国武将たちはどんなお正月を過ごしていたのか?【前編】
【後編】では前半に続き、戦国武将やその家臣たちのお正月の過ごし方をご紹介しましょう。
正月らしい遊びも楽しんでいた
現代でも「正月の遊び」として続いている風習の中には、戦国武将とも関わりがあるものも少なくないようです。
たとえば、のんびりと平和な光景にみえる「凧揚げ(たこあげ)」。
凧揚げは、もともと1000年以上前に中国から伝わってきたそうで、平安時代にはすでに存在し貴族の間で楽しまれていたとか。
そして戦国時代に入ってからは、戦の道具として用いられるようになりました。戦国武将は、敵陣との距離を測るための測量器や、「のろし」代わりの通信手段などとして凧を持ちていたそうです。
土佐の長宗我部元親は(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)は、敵との距離を測る兵器として、手すきの土佐和紙と竹ひごでできた伝統工芸品である菱形の凧を使っていたそうです。
ブンブンと風を切る勇ましい音がする凧で、相手を威嚇させて心理的に追い込む効果もあったとか。
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また、徳島県板野郡藍住町勝瑞の地にある勝瑞城(しょうずいじょう)館跡では井戸茶碗などの土器とともに、「独楽(こま)まわし」「すごろく」「羽子板」など、現代でも用いられている正月遊び道具が発掘されています。
羽突きは、室町時代ことに中国から伝来したといわれています。無病息災を願うゲームのようなものだったのですが、
戦国時代には祭礼の要素が強くなっていき、羽根突きで遊ぶというよりも、羽子板に装飾をほどこして縁起物の装飾品としての色合いが強くなっていったようです。
さらに、江戸時代には、武家では女児の誕生を祝って羽子板を贈答するようになりました。