なぜ「白い餅を焼く」と縁起が悪いのか?戦国武将たちはどんなお正月を過ごしてた?【後編】:2ページ目
戦国武将もお雑煮に舌鼓を打っていた
また「雑煮」も戦国武将にとって大切なものだったようです。
雑煮の起源ははっきりしていませんが、古くは吉田神社神職の日記『鈴鹿家記』に「14世紀後半には正月に雑煮を食していた」という記載があるそう。
戦国時代には、武家の間で正月というハレの日のおもてなし料理として用いられていたようです。織田信長が徳川家康を招いて「烹雑(=雑煮)」をふるまったというエピソードもあります。
現代と同様、当時から地域によっていろいろな違いがあり、たとえば戦国時代の激戦地であった愛知では、「白い餅を焼く」ことが「城が焼ける」ことにつながって縁起が悪いとされたため、餅は焼かずにかつおだしで煮て柔らかくしてから雑煮にしたそうです。
さらに、戦国武将きってのグルメと名高い伊達政宗は、干し鮑、なまこ、にしん、豆腐、黒豆、青菜などの食材を使い、陰陽五行に基づき白・黄・黒・緑・赤を使った配色や目の華やかさにもこだわった雑煮を食べていたといわれています。
また、徳川幕府では、元旦に年賀に訪れる家臣たちに「うさぎの吸い物」を振る舞う習慣があったとか。
家康の先祖、世良田有親・親氏父子が戦に敗れ諸国放浪し、信州林郷に蟄居する旧知の小笠原光政を訪ねた際、ご馳走するものがない光政が12月末に、雪中でうさぎを射止め吸物に仕立て年賀の膳として振る舞ったそう。
のちに松平家の当主として立身した親氏は「あの兎が瑞兆であった」と光政に林の姓を与え、侍大将として三河に呼び寄せました。
以来、毎年元旦の賀宴には松平一族よりも、まず最初に光政に兎の吸物と酒盃を与えるのが常となり、林家も毎年12月29日に兎狩りをし、献上するのが恒例となったと伝わっています。
ちなみに、1836(天保7)年の『東都歳事記』によると、うさぎ汁のほかにも、徳川将軍家の雑煮は、餅・大根・ごぼう・焼き豆腐・里芋・昆布・干しナマコ・干しアワビなど、具沢山な贅沢雑煮を食べることもあったそうです。
戦国武将の雑煮は、現代の我々からみても具沢山で美味しそう。一つの椀でさまざまな栄養がとれるように上手く考えられているなものだな……と思いました。