「本能寺の変」と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【後編】:2ページ目
藤孝はなぜ決断できたのか?
光秀の敗死という結果を知っている私たちにとって、光秀に付くという選択肢が間違いであることは明白です。
しかしリアルタイムで巻き込まれている人たちはそうではありません。
「本能寺に宿泊中の織田信長が、明智光秀に攻められて死んだ」
という事実ですら、当初は正しく伝わっていませんでした。
これを機に明智政権が誕生する可能性だって十分に考えられたのです。
しかし藤孝は「光秀に味方しない」と即断し、それを貫きました。
それが可能だった理由のひとつに、本能寺の変に関する正確な情報を手にしていたということが挙げられます。
実は本能寺の変が起きたまさにその時、藤孝の家臣である米田求政がたまたま京に滞在していました。米田は現地で可能な限りの情報を収集し、藤孝に急報しました。藤孝に第一報をもたらしたのは米田だったのです。
もしも第一報が光秀からもたらされていたら、当然その情報は光秀に有利なものに改ざんされている可能性を考慮しなければなりません。おそらく、他のルートからも次々と不確かな情報はもたらされるでしょう。
信頼できる部下から確かな情報を得ていたこと。それが藤孝の決断を支えていたことは間違いありません。
ファクトとロジックに基づく状況判断
そして情報を受け取った藤孝は、光秀に味方しないことが細川家にとって最善であることに気付いたはずです。
藤孝が光秀に味方した場合
ある程度光秀に付く勢力は出てくるだろうが、最終的な勝敗がどうなるかは不透明。
勝てば良いが、負けたら光秀もろとも滅びるしかない。
藤孝が光秀に味方しなかった場合
光秀は味方を失い確実に敗れる。
それによって光秀を倒した誰か(結果的に羽柴秀吉でしたが、柴田勝家や徳川家康という可能性も考えられました)に恩を売ることができる。
もちろん、光秀が単独で勝利する可能性もありました。その場合はこれまでの関係や、たまの存在を材料に交渉すれば、細川家の存続は勝ち取れるだろう。藤孝は腹を切らざるをえないかもしれないが……くらいのことは考えていたと思います。
本能寺の変直後の藤孝は、ファクト(正確な情報)を手に入れ、ロジックに基づいて正しい決断を下した。
そして揺らぐことなく、決めたことを徹底して実践した。
それが細川家の存続と発展に繋がったのです。