「本能寺の変」と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【後編】:3ページ目
もう一つの可能性
ところで、ひとつ興味深い事実があります。
信長の四十九日にあたる7月20日に、藤孝は本能寺の焼け跡で信長を追悼する連歌会を開催しました。
連歌とは参加者が和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)をリレー形式で作っていくというもので、単に和歌の会というだけでなく、出陣前のゲン担ぎや神への供物、そして死者を追悼するという性格も持っていました。
信長の葬儀については羽柴秀吉が大々的に行ったことが知られていますが、自身が信長の後継者であることを内外に宣言するために行われた政治的なパフォーマンスという側面が大きいとされています。
一方、藤孝が執り行った追悼連歌会には政治的な意義はなく、純粋に亡き主君を慕う思いから出たものであると考えられます。
後の話になりますが、藤孝は決別したかつての主君・足利義昭が困窮していることを知ると経済的な援助をするなど、情に厚い一面がありました。
もしかしたら本気で信長のことが大好きで、その信長を討った光秀になんか絶対に味方なんかするものかと思ってやったことが、結果的にプラスに働いただけだった。
ただそんな単純な話だったのかもしれません。
深慮遠謀の末か、単なる気持ちの問題だったのか。
今となっては知る由もありませんが、そういったことを考えるのも歴史を知る楽しみの一つではないでしょうか。
いずれにせよ、文武両道の武将・細川藤孝は、混沌とした状況の中を生き延びる力も抜群だったというお話でした。